目垣城
大阪府茨木市目垣1丁目

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  名神高速、「吹田IC」から東の14号線を越え、JR東海道本線や阪急京都線も越えて、「茨木市駅」と「南茨木駅」の中間ぐらいの138号線を東へ走ります。

安威川の橋を渡るとすぐ南には佛照寺、その南側には目垣城(めがき)の碑があります。

 
  寺門の前にはお城の石碑、ここも山田城の十三城の一つだそうです。

安威川の左岸、育英橋を下った辺りに館があったと考えられている、でも残っていないらしいよ。
 

 
目垣の地は、古くから中世にかけて、広くこの地を統裁していた溝咋氏(みぞくい)の所領溝咋荘の内にあり、溝咋荘の代表的な土地であったことから、この名が付けられたと云われています。

城跡に関する資料としては

「大阪府全志」(巻三)、溝咋村大字目垣 本地は古来嶋下郡に属し、もと溝杭荘の内にして、目垣村と称しました。

「摂津志」には本地に塁堡の跡ありと記すれども今その跡は詳ならず。

「日本城郭体系」(第十二巻) 目垣城 茨木市目垣「摂津誌」には山田十三城の一つとして、目垣の名をあげるが、位置・興廃年月とも不詳。

以上のように、この辺りに土豪溝咋氏の城館があったことが伺えますが、その興亡や跡地を断定することは困難です。

しかし溝咋氏は古代から、この地方に勢力のあった豪族で、目垣を中心として、館を造り塁堡も築いたことは当然考えられます。

その場合、おそらくは安威川左岸、育英橋を下った辺りであると考えられます。

『現地案内を参照』

 

  
安威川(あい)
  安威川は初めて、地図を南へたどれば淀川の西を平行に流れ、尼崎市で神崎川と合流して大阪湾にでる。

この河口が大阪府と兵庫県の境界なんだね。

お城の碑は向こう側の木がある所、お昼のおにぎり、河原で2つ。

もうすぐ春、嬉しいな、でももう少しゆっくり来てほしいよ。
 

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