垂仁天皇二十七年(紀元前2年)の頃、古代朝廷の米倉である「屯倉(みやけ)」という言葉が表れます。
ここ依綱郷には、十二代・景行天皇五十七年(127)の頃に屯倉が置かれ、周囲には堀が造られ兵で守りました。
しかし大化二年(646)、孝徳天皇の時に朝廷から政府の直轄となり、屯倉は廃止され、この地には屯倉神社が建てられたのです。
のち、この地は依綱から分かれて三宅郷となりました。
南北朝時代、河内は戦いに巻き込まれ、多くの豪族は砦を築き、環濠を造って集落を守りました。
天正の頃、信長の河内攻めで城は姿を消すことになるのです。
『参考文献を参照』
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