水尾城
大阪府茨木市水尾3丁目

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  名神高速、「吹田IC」から東へ走ります。

JR東海道線を越え、阪急京都線「南茨木駅」を越えて、県道15号線を東へ300mほどで水尾図書館があります。

その北には伯光神社、境内には水尾城(みずお)の碑があります。

 
  ここも香西玄蕃が築いた山田城の十三支城の一つと云われているよ。

今では稲荷神社、大きなクスノキがある。

写ってないけど、カメラを構えると沢山の鳩が歩いて寄ってくるよ。
 

 


応仁の乱(1467-)で全焼した紫雲山西方浄土寺の跡地に造営された中世のお城です。

城のことについては、「福井近郷跡古伝上下」という和綴写本の中に、

@永禄九年(1566)10月20日池田筑後守勝政、茨木城に発向し長田河原(市立斎場付近)に陣し、芥川の城を中村新兵衛高次、高槻城主入江左近将監らと相戦う。入江は富田の間に陣し、中村は総持寺村門河堤に陣す。入江・中村らは敗北し勝政は茨木城に帰陣す。

A
永禄十年10月10日夜、南都大仏殿において三人衆(三好の一党)と義継(十二代将軍義晴の弟)は久秀(松永弾正)と相戦う。時に中村新兵衛高次・茨木佐衛門尉(城主)、水尾の郷士(元は斎藤妙椿の浪人)平尾孫左衛門らは三人衆に属す。と記されています。

美濃の斎藤妙椿が没したあと、主家斎藤家の内紛のため平尾孫左衛門は、斎藤家と離れて西方浄土寺の焼跡、奥の院の勝光寺の東佐奈部神社の南、高瀬川に沿った一画に新しく環濠の砦を築いたのが「水尾城」のはじまり、元和偃武により退転したと思われます。

この水尾荘は、のちに徳川幕藩体制により、水尾村・内瀬村・真砂村の三村に分れました。

『現地案内を参照』

 

  
伯光神社(はくみつ)
  「伯光神社(はくみつ)」

天保五年、夏の大干害の時、藁で9mの胴を持った竜を作り、雨乞いをしました。

七日間昼夜祈っても、雨が降らない時は、その竜を高瀬川に流して、もう一度新しい竜を作り再び祈るのです。

でも、このお祈りは昭和22年の大干害を最後になくなりました。

それは、琵琶湖の水が利用できるようになったからです。
 

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