難波宮は、「前期難波宮」「後期難波宮」の二つの時代があります。
大和朝廷の時代、物部氏を倒した蘇我氏は稲目・馬子・蝦夷・入鹿と続き、皇族をもしのぐ勢力を持ちました。
飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)にて、中臣鎌足と中大兄皇子は入鹿の命を奪い、蝦夷を自害させました。
大化の改新(645)の後、軽皇子(かるのみこ)が三十六代・孝徳天皇に即位し、難波に遷都したのが、難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)、つまり前期の難波宮です。
奈良時代、当時の首都は平城京で第四十五代・聖武天皇が、この難波宮を「副都」として営まれたのが後期難波宮です。
聖武天皇は文武天皇と藤原不比等の娘・宮子との間に生まれました。
養老四年(720年)、藤原不比等が没すると、四人の子は若かったために、不比等の娘を妻としていた長屋王が政権を握ります。
しかし、長屋王と藤原四兄弟とは対立するようになり、そのうちの一人・藤原宇合(ふじわらのうまかい)が長屋王の邸宅を包囲、長屋王は自刃するのです。
『参考文献を参照』
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