細川政元が3人の養子(澄之・高国・澄元)を迎え、澄之が跡を継ぐと澄元が澄之を倒し、高国が澄元を近江に追いました。
澄元が亡くなると、子・晴元は家臣の三好元長とともに京へ進攻し、堺に堺公方をたて拠点としました。
享録四年(1531)、「天王寺の戦い」で晴元に敗れた高国は尼崎で自刃、のち堺公方内でも晴元と元長が対立するようになりました。
晴元と元長は堺・天王寺・木津・今宮で交戦、ついに元長は敗れ堺で自害するのです。 この時、三好方の浦上掃部の軍が野田・福島に陣を構えています。 浦上掃部、播磨赤松氏の家臣だと思うけど、誰かな。
三好元長の子・長慶は、父の敵であった晴元に従うのですが、天文十八年(1548)には晴元と敵対していた氏綱に付いて、晴元と将軍・足利義輝を追放しました。
しかし長慶は河内守護・畠山高政や細川晴元方の六角義賢らに攻められ、また弟・義賢を失い、嫡男・義興や弟の十河一存・安宅冬康に先立たれました。
元亀元年(1570)、長慶の勢力が衰えると、家老・松永久秀や三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らが阿波から泉州に上陸し、野田城に入りました。
元亀二年(1571)、織田信長が将軍・足利義昭を奉じて京に入り、野田城を攻め囲むのですが、近江の浅井長政、越前の朝倉義景の連合軍が京に乱入したため、信長は野田城の囲いを解いて浅井・朝倉交戦にあたりました。
『参考文献を参照』
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