真田幸隆は武田氏に仕え、「武田二十四将」の一人にまでなりました。
天正三年(1575)、武田勝頼と織田・徳川連合軍との「長篠の合戦」で、幸隆の子・信綱と昌輝が討死すると、真田家は三男・昌幸が継いでいます。
天正十年(1582)、信長に討たれた武田勝頼が天目山で自害すると、昌幸は北条氏政に仕え、のち家康に属しています。
天正十二年(1584)、家康・織田信雄と秀吉が戦う「小牧・長久手の合戦」の時、家康は北条氏を味方に付ける為、昌幸の沼田城を北条氏に明け渡すように命じたことから、家康とは敵対し秀吉に近づいていくのです。
天正十七年(1589)、天下が東西に分かれつつある時代、昌幸は嫡男・信之を家康へ、次男・信繁を秀吉に出仕させています。 この信繁が真田幸村なのです。
慶長十九年(1614)、「大阪冬の陣」、秀頼の要請により九度山から手勢を引き連れ大坂城に入った幸村は、南側の防備が弱いと考え、この笹山に出城を構えたのが真田丸なのです。
この出城で、幸村はじめ、伊木遠雄、伊丹正俊、山川賢信、平井保利、北川宜勝、由松実元、浅利一盈の諸将と三千の兵が鉄砲を用いた奇策で徳川軍を苦しめました。
元和元年(1614)、幸村は家康の本陣に向かって突撃し討死、そして大坂城も落城するのです。
『参考文献を参照』
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