天王寺城
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大阪府大阪市天王寺区生玉寺町
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地下鉄谷町線、「天王寺駅」で地上に上がって北へ200mぐらいには天王寺城(てんのうじ)があります。
2006年3月、桜便りは届いてる。 ここは大坂、今日の小雨は、いつの夕陽を映してくれるかな。
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大阪駅からJR環状線、半周南には天王寺駅。
大阪駅から南に伸びる道が御堂筋、一本東が堺筋、電気店の日本橋かな。
その東が谷町筋、お寺が続く街、ずーと南へ行くと天王寺。
途中の生玉寺町、月江寺辺りが天王寺城跡なんだね。 |
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天正四年(1576)、信長は石山本願寺を攻めるに当たり、原田直政、筒井順慶に命じて天王寺城を築きました。
対する本願寺門方は、桜の岸砦と木津砦を構えました。 信長は、木津砦が自由に海上と連絡がとれるのを見て、直政・順慶に命じて、その通路を絶つ為に中間にある三津寺砦を討ち取り、明智光秀・佐久間信盛・正勝にこの天王寺城を守らせました。
のち、佐久間信盛・正勝父子や松永久秀を定番として石山門徒に対抗させていました。
天正五年(1577)、松永久秀は信長に叛いて去り、佐久間父子が石山本願寺に当るのですが、石山城が開城すると、信長は佐久間父子が石山を攻撃せず、堺の町人を招いて武道を忘れていた為に追放、天王寺城も壊されたのです。
『参考文献を参照』
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「藤原家隆の墓」
藤原定家とともに、「新古今和歌集」を編纂した歌人で、79歳の時に隠棲し、ここ夕陽丘に住みました。
承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇を慰めていた人ともあります。
ここ夕陽丘より見える「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕日を好み、ここで世を去ったので、その庵は夕陽庵といわれています。 |
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「狛虎」
南へ行くと「愛染さん」と言われる勝鬘院(しょうまんいん)、聖徳太子が四天王寺を建てた時の施薬院です。
中の多宝塔は秀吉が建立し、大阪市で一番古い建物だそうです。
その西側の大江神社の裏手、2003年から祀られている。
WBCで知ったこと、一回からじっくりと最後まで見ると面白いよ、と読みながら、マウスは写真へ動く。 |
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「口縄坂」
北から、真言坂・源聖寺坂・学園坂・口縄坂。 大江神社の所には、愛染坂・清水坂・天神坂。 そして天王寺公園近くに、逢坂があるよ。
坂の下から眺めると、道の起伏がくちなわ(蛇)に似ているから、口縄といわれている。
昔は、坂の下の向こうは海だったのかな、今日の大坂は小雨。
でも目閉じると幼き頃の夕陽が見える、仕事帰りの疲れた頃、一番きれいに映るらしいよ。
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