畠山氏は足利尊氏に従い、義深の頃に河内・泉和・越中・能登の守護となり、その子・基国の時に細川氏・斯波氏と並ぶ室町幕府三管領となりました。
基国・満家・持国と続くのですが、持国は子にめぐまれなかった為、弟の持富の子・政長を養子に迎えました。 しかし、のちに義就が生まれたのです。
持国は実の子・義就に家督を継がせようとした時、養子の政長がこれに対抗し細川勝元を頼りました。 一方、義就は山名宗全を頼ったのが、応仁の乱の始まりとも云われています。
政長の子・尚順は義就の子・義豊を滅ぼし、のち尚順・稙長・政国と続いています。
天文十五年(1546)、三好長慶は細川晴元の命令により堺へ出陣し、細川氏綱・畠山政国の軍勢に備え、翌年には高屋城主・政国と戦いました。
この時、細川晴元が陣を構えた所がこの若林と云われています。
『参考文献を参照』
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