平正十二年(1357)、南朝方である楠木正成の三男・正儀(まさのり)や一族の和田正武は、赤坂・千早・飯盛の諸城で旗を挙げました。
この時、八尾城には酒井延綱、佐和正税、秋山忠成、古折信盛、真木野信行の諸将五百余騎で守りを固めています。
しかし北朝方の細川頼之が三万の大軍を率いて、八尾城を攻め、三昼夜の攻撃により落城するのです。
室町時代、河内守護・畠山家の管領争いの時、若江城や八尾城は攻防の場となり、永禄七年(1564)の信長による河内平定後には、八尾城は家臣・池田正教に与えられました。
天正元年(1573)、池田正教は若江城主になるのですが、本能寺の変で信長が世を去ると、秀吉のキリシタン追放により正教は美濃大垣城の池田輝政のもとに追放され、八尾城も廃城となりました。
大阪夏の陣では、八尾を中心に長宗我部盛親と藤堂高虎勢による合戦が行われています。
『参考文献を参照』
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