尼子城は、京極家第五代で、室町幕府の重臣で「バサラ大名」としてその名を天下に轟かせた京極高氏(道誉)の嫡孫備前守高久が甲良荘尼子村を領有し尼子氏と称しました。
その頃、本家京極家の居城勝楽寺の前衛城として築かれたのが尼子城です。
嫡男・出羽守詮久以後近江尼子氏の居城として、南北朝の動乱期京極家の有力連技旗頭として重きをなしていたが、打ち続く戦乱で城は落ち一族家臣達は、四散したと考えられますが、山陰山陽に覇を握る分系の雲州尼子氏を頼り、彼の地で活躍した一族家臣も多く、近江尼子氏は史上から姿を消したのです。
殿城池は、ありし日の尼子城の掘跡で、昭和初期まで池の西、深さ4.5mで北側に湾曲した竹藪となった堀跡が続いていましたが戦後宅地に変わりました。
村の東、玄翁堂裏の竹藪から尼子城の土塁と堀跡が県教育委員会により発見され、室町時代では広大な平城であったことが判明しました。
お堀の水神様は、落城のとき入水された城主の姫君(八千姫)が祭られています。 このとき、若く美しい侍女お園も姫の後を追って入水殉死したことを、領民が憐れみいつしかこの堀のことを「お園掘」と呼び、敬い親しみ譲り続け今日に至っています。
『現地案内を参照』
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