元久元年(1204)、蒲生氏の分流で、権五郎俊光を祖とし観学院領嶬峨庄の下司となり嶬峨氏と名乗りました。
長享元年(1487)、足利義尚が近江守護・六角氏の追討令を全国に出すと、六角高頼は甲賀に身を伏せ、将軍勢は甲賀口を攻めるも敗れて義尚も命を落とします。 「鈎(まがり)の陣」
この時、嶬峨越前守は六角高頼に味方し、その戦功で甲賀五十三家に数えられます。
永禄11年(1568)、六角氏が信長に滅ぼされると、家臣・蒲生賢秀が信長の勧誘に応じ、嶬峨氏もその配下となりました。
天正13年(1585)、「甲賀破儀」により嶬峨城は没収されるのです。
『参考文献を参照』
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