応仁の乱で、京極高清は東軍の細川氏に、六角高頼は西軍の山名氏に属し、湖東を中心に長光寺城、簗瀬城、押立城、高野瀬城、守山城、清水城などで戦いが始まるのです。
応仁元年(1467)、幕府から守護職を奪われた六角高頼の本城・観音寺城を、新たに守護職に任じられた高頼の従兄・政堯を助けた京極持清が攻撃したことに端を発し、ついで高野瀬城も落とされました。
翌年、京極方は観音寺城・守山城を攻め落とし、政堯、持清が湖東を支配をします。
文明二年(1470)、京極持清が世を去ると、六角高頼にも運が開けていくのです。
持清の後、守護職は孫・童子丸に譲られましたが、持清の遺志や多賀氏の同族の争いが起こり、幕府も童子丸では不安を感じて、再び六角政堯に任じるのです。
しかし六角高頼が清水城に政堯を攻め落とし、京極氏・多賀の反乱分子や美濃の斉藤妙椿と組んで、多賀高忠を攻め、湖東の支配権を手中に収めるのです。
『城郭総合辞典 滋賀の城郭』より
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