大永年間(1521-28)、高野瀬隆重により築城、のち秀隆・秀澄と続きます。
永禄3年(1560)、小谷城主・浅井氏と通じたことから、六角定頼・義賢父子の攻撃を受けるのです。
しかし堅城のため難攻、義賢は周囲に土塁を築いて水攻めを行うも失敗に終わっています。
その後、義賢は幾度も攻撃を試むと、肥田城側は浅井氏に援軍を求め、ついにこの地も浅井氏の手中となるのです。
永禄12年(1569)、信長軍により開城、天正2年(1578)には信長の家臣・蜂屋頼隆が入り、翌年には長谷川秀一が守りました。
文禄の役で長谷川氏は病死、慶長以後は廃城となるのです。
『参考文献を参照』
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