堅田陣屋
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滋賀県大津市本堅田
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京都山科、長いトンネルを抜けると琵琶湖。
琵琶湖一周シリーズの2日目、坂本〜雄琴〜堅田まで歩くよ。
JR堅田駅の東、北には琵琶湖大橋が見える。 湖に突き出た浮御堂、この辺りが堅田陣屋(かたたじんや)と云われています。
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ここは琵琶湖の浮御堂、正式には海門山満月寺と言います。
陣屋は、南は浮御堂、西は祥瑞寺、北は野々口通りの範囲に構えた。
街は沢山のお寺や神社、屋敷があり、水堀をめぐらせて城下町の様子だったらしいよ。 |
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元禄11年(1698)、下野国の堀田正俊が堅田に移り、陣屋を構えます。
でも文政9年(1826)、堀田氏は転封となり、天領となるのです。
『参考文献を参照』
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「祥瑞寺」
応永年間(1394-1428)、宗雲が開いたお寺です。 山門の前には「一休和尚修養地」の石碑があるよ。
一休は22歳から34歳まで、宗雲に仕え、のち京都大徳寺の住職になったんだ。
大徳寺を開祖した宗峰妙超は、赤松氏の家臣・浦上氏の子だそうです。 赤松氏や浦上氏、懐かしいよね。 |
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「堅田源兵衛の首」
ここは光徳寺、蓮如上人が親鸞聖人の御真影(木像)を比叡山延暦寺僧兵から守るため三井寺に預けました。
その後、木像を受け取りに行くと、三井寺は応じず「生首を二つ持って来い」と言われた。
これを聞いた源右衛門・源兵衛父子は、父は子の首を持って三井寺に差し出し、もう一つは自分の首を差し出すと言った。 |
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「おとせ石」
源平の頃、源氏の屋敷に奉公していた「おとせ」という女性がいました。
平家滅亡の時、源氏の白旗を守って大津に逃れ、平家の追っ手をさけて湖に飛び込んだ。
でも白旗を握った手を切り落とされてしまうんだ。 片腕は、おとせの子が指を開かせるまで、旗を離さなかったという。
琵琶湖、すごい話が残っているんだよね。 |
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