保元の乱(1158)の時、清和天皇の第四子・貞保親王八代の長澤太郎冠者土佐守義盛が恩賞により、長澤領を賜り、長澤柵(構)を築いたのが始まりと云われています。
長澤城主は十七代、約三百年間続きました。
天文の頃、北国街道では浅井氏や若宮氏の被官が在番し、天文七年(1537)には浅井氏と六角氏の争いで六角氏の本陣が長澤村に置かれています。
信長の寺社仏閣焼き討ちに対し、江北十ヶ寺の先頭に立つ福田寺は、僧兵や民衆を組織して立ち向かいました。
慶長二年(1597)、秀吉の古城取り壊し布告により長澤城の残部も取り除かれ、慶長七年(1602)には家康の旗頭・内藤正成の領地となるのです。
『現地案内を参照』
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