中野城
滋賀県蒲生郡日野町西大路

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  名神高速自動車道「竜王IC」から477号線を東へ、近江鉄道を越え、河原交差点を越えて日野町入ると少し南には日野川ダムがある大きな池、その北側のほとりには中野城(なかの)がありました。

 
  日野城とも呼ばれてる、蒲生氏郷の祖父・定秀が築城したんだ。

何故が、蒲生氏はよく耳にする武将だよね。

池の方には中野城の石碑があるよ。
 

 
日本史上で日野城と呼ばれるこの城は、日野では古くから中野城と称しており、鎌倉時代の初期から約四百年間における日野の領主蒲生家六万石の最後の本拠でした。

東方音羽の城山に蒲生家の音羽城があった文亀大永の頃(1501-1523)に、この地に砦が造られたのが始めであり、その後、蒲生定秀が当主の頃、天文2年(1533)から3年にかけて本格的に築城され、同時にこの城の西側一帯の荒野に町割りをして日野の城下町をつくります。

蒲生定秀の孫に当る蒲生氏郷は、この城で弘治2年(1556)に生まれました。 氏郷は26歳の天正10年に本能寺の変で信長が憤死した時、安土城にいた信長の妻妾一族をこの城に迎え入れ、光秀の軍を迎え撃とうとしたことは有名です。

天正12年、秀吉の命によって蒲生氏郷が伊勢松ケ島へ国替えとなり、52年間にわたる中野城と城下町繁栄の歴史は幕を閉じました。

その後、氏郷は松阪城12万石城主から、天正18年会津黒川城42万石に移封され、黒川を若松と改め、92万7千石の大名となるのですが、文禄4年40歳の若さで京都邸において病没するのです。

徳川時代に入って、天和6年(1620)市橋長政が中野城跡に仁正寺藩1万8千石の陣屋を構えて、明治維新までの藩主となるんです。

『現地案内を参照』

 

  
  びっくり、石垣がすごいんだよ。

さすが、蒲生氏の本拠だよ。
 
  お城の中に稲荷神社がある。

市橋氏が城内に陣屋を設け、裏鬼門にあたるこの丘に伏見から勧請されたのが、ここのお稲荷さんだよ。

やっぱり蒲生氏は信長の野望でよく登場していた武将だよね。
 

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