小谷城
滋賀県東浅井郡湖北町伊部

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  JR東海道本線、米原駅から北陸本線、長浜駅から2つ目「河毛駅」で降ります。

東へ2km、北側の山には小谷城(おだに)があります。

2006年8月、真夏。 ついに来たよ、小谷城。 日本五大山城の一つ、一ページでは云えられないよ。

 
  浅井亮政・久政・長政、浅井氏三代のお城。

長政の妻は信長の妹・お市。

信長に攻められ落城、長政は自刃、男子・万福丸は関ケ原で命を奪われる。

三人の女子、茶々は秀吉の側室・淀君、お初は大津城主・京極高次の妻、お江は徳川秀忠の妻。

お江の子は千姫、豊臣秀頼の妻だね。
 

 
応仁・文明の頃、浅井亮政(すけまさ)は近江国守護・京極高清の家臣でした。

大永3年(1523)、京極氏の跡継ぎをめぐって、高清は次男・高吉(高慶)を押し、浅井亮政や浅見貞則は長男・高広(高延)を支持します。

京極家の内紛は戦いへと発展、亮政らは高清と高吉を尾張に追いやり、高広を守護に迎えました。

亮政はこの内紛に乗じて、京極氏家臣で最大の勢力を誇っていた上坂信光を失脚させ、江北の実権を握り築いたのが小谷城です。

大永5年(1525)、南近江を支配していた観音寺城主・六角定頼が小谷城を攻めると、亮政は城から逃れ越前朝倉氏を頼り、その後は浅井氏と六角氏の抗争が続く中、しだいに勢力を拡大していくのです。

天文11年(1542)、亮政の跡は久政が継ぎ、永禄3年(1560)には長政に譲りました。


信長は京への上洛に備え、妹・お市の方を長政に嫁がせ姻戚関係を結びます。

元亀元年(1570)、朝倉氏を討たない約束があるにもかかわらず信長は一乗谷城の朝倉義景を討とうと若狭から敦賀に入ります。

この時、長政は朝倉氏に味方して信長を背後から攻め込むのです。

天正元年(1573)、浅井・朝倉連合軍と信長軍は姉川で戦い、越前に撤退した朝倉勢は追撃され滅亡しました。

信長は3年にわたる小谷城への攻撃を行い、周囲の砦は落ち、内部の裏切りで秀吉軍は京極丸に入り、ついに長政は自刃、小谷城は落城するのです。

『参考文献を参照』

 
 

本丸
  一豊と千代、近江の長浜駅ホームは沢山の人だよ。

ようやく駅を出る、正面には秀吉と三成の像。

一日乗り放題のバス、「戦国歴史めぐりコース」、すでに感激。

姉川古戦場、お市の里、小谷山の麓で降りる。

地元ボランティアの方のワゴン車で番所まで登る、感激。
 
空堀
 

お城の案内の方が説明してくれる。

番所からお茶屋、馬洗い池、大広間、全てが広い。

尾根には郭が並ぶ、長政自刃の地は赤尾屋敷跡。

ここは本丸、背後の空堀だよ。

大き過ぎて半分しか写らない、次は中丸。

家臣が秀吉軍に寝返り、導き入れた所だね。

 

  
大石垣
  お局屋敷がある、お市の方や子供達が居たんだ。

京極高清の住まいは京極丸、長政の父・久政が自刃した小丸。

そして大石垣、すでに感動は頂点。

しかし、まだ途中。

六坊を経て、亮政が六角氏と対抗する為に築いた大嶽城がある、その向こうへ下ると居館や重臣屋敷跡がある。
 
浅井氏の供養塔
  「浅井氏の供養塔」

大広間に祀られている供養塔。

戦国時代の本、テレビドラマ、もう何回も見ているのに。

やっぱり浅井氏はいたんだ、小谷城にいたんだ。
 

  
風景
  南東の風景、見えないけど姉川が流れてる。

遠く向こうは伊吹山、その向こうは関ケ原。

ずーと向こうは尾張、信長が攻めてきたんだ。

歴史で感動とは、たまに聞かれる。

同じ場所で、同じ風景をゆっくり眺めている時間、と答える。
 
長政とお市
  「長政とお市」

歴史館と思っていたけど河毛駅、その前だよ。

あと30分で電車は来る、ざぶとんの椅子に座る、ゆっくり高校野球を見る。

各駅停車、2つめの駅は長浜駅、播州赤穂行き快速に乗り継ぐよ。

ホームは人がいっぱい、時間がない、いそがなくてはね。
  

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