小倉城は、承暦年代に清和源氏の後裔・小倉景実が、背後に鈴鹿山脈を擁し、眼下に愛知川を望む天然の要害に築いた城塞で、東は千手川より西へ約二坪の間、断崖に臨んで本丸・武家屋敷・土塁・遠見櫓・外塀などがあり、下には田畑に囲まれた小倉の城下町が開けていました。
以来約五百年間、小倉氏は次第に勢力を増し、愛知・神崎・蒲生三郡の東部を領し、二十一の出城を構え、佐々木氏・蒲生氏の隣強と雄を競っていました。
永禄年間(1558-70)、小倉氏族の間に内乱が起こり、第十七代城主・良秀は敗れて城は焼亡、同族は各地に散逸するのです。
『現地案内を参照』
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