応仁・文明の乱(1467-77)、九里村土着の豪族である九里賢秀(くのり)は戦功をあげました。
孫・信隆の頃、第十一代将軍足利義澄が義種(義尹)に官位を解かれると、義澄は伊庭氏・九里氏を頼り、岡山城に入ります。
永正8年(1511)、岡山城で義晴が生まれると義澄は世を去り、のち佐々木六角氏により信隆は殺害されました。
子・浄椿(じょうちん)が城主になるのですが、六角定頼や細川高国らの奇襲により城は落ちました。
大永5年(1525)、九里氏の残党が九里三重郎を主に六角氏と戦うのですが討死、九里家は滅亡するのです。
『参考文献を参照』
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