宇多天皇ののち敦実親王・源雅信・源扶義と続き、その子・源成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居を構えて、佐々木氏を名乗ったのが始まりです。
平治元年(1156)、平治の乱の時、佐々木秀義は、源義朝に属したのですが、敗れて関東に移ります。
治承四年(1180)、源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、子の定綱・経高・盛綱・高綱を頼朝に従わせ、のち佐々木荘に戻るのです。
承久三年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府倒幕を企てた承久の乱では、定綱の子・信綱も倒幕方に属し、宇治川での戦功により近江国佐々木豊浦、堅田、栗本の地頭職を務めました。
長男・重綱は坂田郡大原荘、次男・高信は高島郡田中郷、三男・泰綱が宗家と江南の神埼・蒲生・野洲・栗太・甲賀・滋賀の六郡、四男・氏信は江北の高島、伊香、坂田、犬上、愛智を継ぎました。
この三男の泰綱が京都六角堂に屋敷を構えたので六角氏と名乗り、四男・氏信が京極氏を名乗るのです。
『城郭総合辞典 滋賀の城郭』より
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