藤原秀郷を祖とする近江蒲生氏は、室町時代には近江国守護・六角氏に仕えます。
明応五年(1496)、美濃の斉藤利国が京極氏と共に六角高頼を攻撃した時、音羽城主・蒲生貞秀はよく奮戦しています。
文亀二年(1502)、六角高頼の重臣・伊庭貞隆が主君に背いて乱を起こしました。 管領細川政元の後押しにより貞隆は青地城,馬淵城,永原城を落とすと、高頼は観音寺城を捨て音羽城へ逃げ込むのです。
貞隆は家臣赤沢朝経と共に音羽城を包囲、これを蒲生貞秀がよく守り大勝、貞秀は名を世に知らしめたのです。
大永二年(1522)、貞秀の没後、貞秀の孫・秀紀と、西に中野城を築いた叔父・高郷の間に相続争いが起こります。
高郷に攻められた蒲生秀紀は三年間の籠城の末、守護・六角高頼により和議、秀紀が鎌掛城に移ると音羽城は廃城となるのです。
『参考文献を参照』
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