奈良、一乗院門蹟は、永禄8年5月に甲賀の和田惟政の館を経て、この矢嶋少林寺に入室しました。
観音寺山佐々木六角承禎の命に依って建立した館を本拠にして、土豪矢嶋越中守に庇護を受けて、永禄9年2月還俗して、名を足利義秋と改めました。
同9年9月に西江州にて三好長逸の乱があり、永く続かなかった矢嶋の館を去ることになりました。
この時を界に以後時代は変わり、徳川幕府政下分部二万石の治める矢嶋分城となり、戸田、川田、新庄、今浜、小嶋、矢嶋の管理経営本部となり、明治8年には矢嶋温知学となり、明治24年頃より、自治会館(地下)となって、昭和53年新会館竣工に依り洋風となりました。
『現地案内を参照』
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