鎌倉時代から室町末期まで小倉氏が支配した山上は、信長没後の天正11年(1582)、秀吉は最初の知行改めに、北政所ねねの叔父・杉原家次(坂本城主)に山上庄2,336石を与えましたが、家次は翌年に他界しています。
次に秀吉は五奉行の筆頭で、ねねの義従兄・浅野長政(大津城主)の知行地に加え、近江と桑名を結ぶ重要な通商路「八風越え」に備えました。
天正19年、秀吉は信長の遺児信高に庄内1,060石を与えたが、慶長4年に他に変えられました。
元和5年(1619)、山上は家康の天下制覇の最功労者・安藤重信(高崎城主5万6千石)の所領となり、重長・重博と続き、元禄8年5月(1695)には備中松山に転封後は一時天領となりました。
元禄11年5月(1698)、山上は譜代重信の稲垣長茂の孫・稲垣重定の筆頭所領となり、稲垣氏は幕閣の重鎮、江戸
のち、定淳の寛政6年12月、初めて山上陣屋が構築されました。 明治2年、版籍奉還で藩主稲垣太清は、家臣72世帯と共に山上に帰ったが、藩士宅9軒、長屋11軒の寛政まで村内の安養寺等に居て、藩知事の職務を執行しました。
『現地案内を参照』
|