佐々木源氏の一流、佐々木秀義の六男・巌秀(いわひで)がこの地を領して吉田氏と名乗ります。
寿永3年(1184)、兄・四郎高綱は宇治川の合戦で名馬(いけずき)を駆って、梶原景季と先陣を争い名をあげた武将です。
吉田城は、岩倉川と子増川を自然の外濠とし、その水を引いた内濠をめぐらして築城されたようです。
現在はその内濠の大半が埋められて僅かしか残されていないうえ、城は元亀2年(1571)、宇曽川の戦いで、信長軍の馬蹄に踏みにじられ焼き討ちにあい、あとかたもなく焼きつくされてしまいました。
築城時の史記はおろか、落城の伝承は何一つ残されていません。
吉田氏は、子々孫々この地に地頭として生き延びますが、巌秀の9世孫の徳春の代に京都嵯峨へ退隠して角倉(すみのくら)の家祖となりました。
江戸時代の豪商角倉了以(りょうい)は、その子孫です。
『現地案内を参照』
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