尼子経久の次男・国久とその子誠久、敬久らが三千余騎の手勢を持ち、尼子軍の中心的家臣団として活躍したのが新宮党です。
しかし合戦で立てた武功を誇り、高慢な振る舞いが多く、経久の孫・晴久や他の諸将の反感をかっていました。
これを知った毛利元就は、新宮党が毛利氏と通じて謀叛を起こそうとしている、という風評を富田城内に流します。
天文二十三年(1554)、これを聞いた晴久は新宮党を壊滅させるため、国久が登城の途中で本田豊前守・平野又右衛門に待ち伏せさせ、誠久は城下で大西十兵衛・立原備前守に討たせました。
誠久の弟・敬久は途中から館に引き返し、立て籠もり戦うのですが敗れ、誠久の子・常久、吉久らと共に館に火をつけ自害し果てます。
この時、誠久の末子で当時二歳の助四郎だけは難を逃れます。 尼子氏滅亡の後、再興のために出雲に進出し、最後は播磨上月城で戦い敗れ自害、彼こそ尼子勝久なのです。
『参考文献を参照』
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