南北朝時代、南朝の中賀野掃部助と入江駿河守が拠っていました。
応永十八年(1411)、今川氏六代・今川範政が葉梨荘から移り、府中館を構えたのが始まりとも云われています。
天正十三年(1585)、家康は松平家忠に駿府城の築城を命じ、翌年には浜松城から移ります。
天正十八年(1590)、小田原征伐の後、家康は江戸に移り、駿府城には中村一氏が入り、関ケ原の後は子・忠一が伯耆米子城へ転封となりました。
駿府城は、家康の家臣・内藤信成が入るのですが、家康が将軍職を子・秀忠に譲ると駿府城を隠居地と決め、内藤氏を近江長浜城に移します。
元和二年(1616)、家康が世を去ると、徳川頼宜が在城し、兄・秀忠の命令で紀州和歌山城へ移ると、家光の弟・忠長が城主となるのですが、上野に蟄居となり、駿府城には城代が置かれました。
慶応四年(明治元年1868)、徳川家達(いえさと)が駿府城主となり、翌年には駿府を静岡と改め、お城も払い下げとなるのです。
『参考文献を参照』
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