当地は、平安時代に「和射郷」の中心となり、鎌倉室町時代にわたり、「日和佐庄」と呼び、安土・桃山時代(天正初期1570年代)にこの地の豪族日和佐の後裔、日和佐肥前守が長曾我部勢の侵攻を防ぐため、標高60mのこの地に城を築いたとされています。
天正10年頃、長曾我部勢の侵攻により落城、主将の和佐泉守一族は、軍門に下ったが、住民はこの地を城山と呼び、また日和佐城址として親しんできました。
当時は東西が40間、南北が22間あり、石垣も所々昔を偲ばせるものがありましたが、今は新日和佐城となっています。
『現地案内を参照』
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