川島城
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徳島県吉野川市川島町川島
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徳島自動車道、「土成IC」から国道318号線を南へ、吉野川を渡り192号線を西へ3km、川島公園の地が川島城(かわしま)です。
2005年8月、四国に流れる吉野川。 ここも阿波九城の一つ、阿波の流れは沢山のお城話を聞いていたんだね。
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三好長慶の一族・川島惟忠が築いたお城、今ではきれいな天守が建ってるよ。
同じ川島町には上桜城がある、その北にあったから別名は「北の城」と呼ぶんだね。 |
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川島城から南1kmのところ、川島町上桜には篠原長房の上桜城があります。 篠原長房は三好長慶の弟・義賢に仕えていました。
この義賢の妻・小少将は鳴門市撫養町にある木津城主・篠原自遁と通じていたので、長房が意見をすると逆切れになりました。
元亀三年(1572)、小少将は長慶の甥で勝瑞城主・三好長治や、その弟・十河存保らを派遣して篠原長房が籠もる上桜城を攻め滅ぼしてしまうのです。 この時の戦功により川島惟忠が築いたのが川島城です。 (川島合戦)
天正七年(1579)、土佐の長宗我部元親は、阿波の西端にある白地城を落とし、吉野川に沿って東へと侵攻してきました。
最初、川島から西にある美馬町の重清城を落とし、その東の脇城と岩倉城を囲みました。
この脇城には三好長慶が武田信玄の弟・信顕と京都で出会い、のち信顕が脇城を守っていました。 2つの城は容易に落とすことができず、和睦により長宗我部軍は両城に進駐しました。
武田信顕と岩倉城主・三好康俊とが謀り、勝瑞城に使者を送って、「土佐方に従っているのは本心ではない、長宗我部軍は土佐に引き返すので、一緒に追撃したい」と申し入れました。
これを信じた勝瑞城方の矢野駿河守・森飛騨守をはじめ、多くの将兵は岩倉城までやってきました。 その時、脇城と岩倉城からの挟み撃ちに遭い、勝瑞城の諸将たちは全滅をするのです。(岩倉合戦・脇城外の戦い)
この時、川島惟忠も共に討死し、その子孫は岡山県久米郡の上殿城に逃れました。 上殿城のある地名は河島になっているから少し感激。
『参考文献を参照』
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天正十三年(1585)、秀吉の四国征伐が始まり、その功績で蜂須賀家政が阿波の領主なりました。
家政は家老の林能勝に、修築させ城番に任命しています。
この林能勝は木曽義仲の子孫で、蜂須賀正勝に従い、軍師・築城家として名を上げ、のち徳島城の縄張りも行った人物です。
もっとすごいのは、九州征伐・朝鮮出兵に参加し、81歳で大阪冬の陣でも功績を挙げているのです。 |
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「川島神社」
江戸幕府の終わり、当時の陸海軍総裁の蜂須賀斉祐が、城山で洋式調練(訓練)を行っています。
徳島公園には斉祐が造った「鯨船千山丸」がまだあるよ。
天守がある所が本丸と思っていた、でもこの神社の裏側だったんだね。
断崖絶壁の「鼻の岩」にある本丸、眼下を見下ろす吉野川、先端に立って沢山の話を聞きたかったな。 |
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