勝端城は、室町時代の阿波国守護・細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る中世城郭の中では珍しい平城です。
十五世紀中頃、細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移したとされ、その後、勝端城を中心として形成された守護町勝端は、阿波の政治・文化の中心として栄えました。
勝端城は、京都の菅領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれていました。
応仁の乱では、東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では、細川澄元党、次いでその子・晴元党の拠点となっています。
天文二十二年(1553)、家臣・三好義賢が守護細川持隆を殺害し、その実権を奪いました。 このころ三好長慶らは度々畿内へ出兵し、三好の名を天下に轟かせています。
勝端は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、畿内で活躍した細川・三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、畿内と直結した文化都市としても全盛を誇りました。
そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえます。 また城下には多くの寺院が建ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていました。 本丸跡の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されています。
天正十年(1582)、土佐の長宗我部元親は十河存保の守る勝端城に押し寄せ、八月二十八日、存保は中富川の合戦で大敗し、勝端城に籠城するが、九月二十一日、讃岐へ退き、ここに勝端城の歴史は幕を下ろすこととなるのです。
その後、天正十三年(1585)、蜂須賀氏の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転し、町は衰退していくのです。
城内にある見性寺は、三好氏の菩提寺であり、当時は城の西方にありましたが、江戸時代の中期にこの地へ移り、境内には、之長・元長・義賢・長治らの墓が並んでいます。
『現地案内を参照』
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