徳島城は、天正十三年(1585)に阿波国(17万6千石)の領主となった蜂須賀家政によって建設されました。
築城にあたっては、天下人秀吉の命により、伊予の小早川隆景や土佐の長曾我部元親、比叡山の僧侶が協力しました。
徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧みに利用した城でした。
徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸、南麓の御殿、西麓には隠居した藩主等が住んだ西の丸からなる平山城でした。
藩主が暮らしたのは。天守のある城山ではなく麓の御殿で、御殿は藩主の居間や藩主が家臣たちを引見する広間(121.5畳)や大書院(110.5畳)のほか、重臣たちの詰めた部屋のあった「表」と藩主の側室・子どもとその身の回りを世話した女中たちが住む「奥」に分かれていました。
「奥」は藩主とその家族以外の男子は入ることができませんでした。
藩主の居城として徳島藩のシンボルであった徳島城は、明治になると役目を終え、明治八年(1875)に解体され、現在では石垣や表御殿の庭園を残すだけとなりました。
『現地案内を参照』
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