徳島城
徳島県徳島市城ノ内

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神戸淡路鳴門自動車道「鳴門IC」から国道11号線を南へ走ります。

吉野川を渡ると徳島公園、小高い山には徳島城がありました。

 
  蜂須賀小六、よく聞く名前だよ。

秀吉に従い、ついに阿波の国を所有するんだ、すごい運命の人だよね。

四国へ来るのは、久しぶり。

やっぱり明石大橋は高いよね。

発見、徳島人の運転はいらちです、後ろに引っ付きます。
 

 


徳島城は、天正十三年(1585)に阿波国(17万6千石)の領主となった蜂須賀家政によって建設されました。

築城にあたっては、天下人秀吉の命により、伊予の小早川隆景や土佐の長曾我部元親、比叡山の僧侶が協力しました。

徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧みに利用した城でした。

徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸、南麓の御殿、西麓には隠居した藩主等が住んだ西の丸からなる平山城でした。

藩主が暮らしたのは。天守のある城山ではなく麓の御殿で、御殿は藩主の居間や藩主が家臣たちを引見する広間(121.5畳)や大書院(110.5畳)のほか、重臣たちの詰めた部屋のあった「表」と藩主の側室・子どもとその身の回りを世話した女中たちが住む「奥」に分かれていました。

「奥」は藩主とその家族以外の男子は入ることができませんでした。

藩主の居城として徳島藩のシンボルであった徳島城は、明治になると役目を終え、明治八年(1875)に解体され、現在では石垣や表御殿の庭園を残すだけとなりました。

『現地案内を参照』

 

  
  「鷲の門」

北側の駐車場、おじさんが、「一日ゆっくりしていきや」と言う。

堀と石垣がマッチする、昔のお城は、山の上と見上げて歩く。

藩置県で建物が取り壊され、昭和二十年の徳島大空襲で焼失してしまう。

中を通って駐車場に戻る、おじさんが言う「早すぎる、何見にきた」

いらち播州人、普通と言いながら、明石大橋をすばやく渡るのでした。
 

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