伯耆国江美城は、蜂塚氏初代の城主、安房守によって開創され、文明16年(1484)と云われています。
江美城は、自来、二代・三河守、三代・丹波守、四代・右衛門尉と80有余年にわたって、つづく動乱の時世に処し、堅固な要害と、有力な武力を保有し、殊に城下領民を育て、鉄山と開田の技術を家業とし、和戦兼備の特色ある蜂塚氏一門の居城でありました。
尼子毛利の攻防つづく中で、毛利の軍議は、江美城蜂塚氏一門の鉄の技術集団攻略を先発するに決し、毛利の副将・吉川元春は、軍勢3千に鉄砲隊を差し向け、その采配を杉原盛重に命じました。
この日あるをかねて覚悟の城主蜂塚右衛門尉は、この大軍をむかえ討ち、奮戦敢斗死力をつくすも、遂に自ら城閣炎上を命じ、割腹して城と運命をともにしました。
城主の壮烈な自刃のさまを見て、家臣郎党ことごとく、城主の後を追い、江美城は、ここに落城するのです。
時に、永禄8年(1565)8月6日、朝まだき刻でした。
『現地案内を参照』
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