二上山城
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鳥取県岩美郡岩美町岩常
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鳥取市から国道9号線を東へ、岩美町の「河崎口」から37号線を南へ3kmほど行くと「パラダイスパーク」の案内が見え、そこには標高334m(比高280m)の山頂に、二上山城(ふたがみやま)があります。
2004年7月は暑い暑い、日本列島は太陽熱で溶けそう。 鳥取の山城は住んでる近くに「切ない史跡」があることを教えてくれたよ。
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しかし暑い夏だね、毎年暑くなっていくような気がする。
北から南へ走る、だんだん近づいてきました。 太陽熱でくらっとするぐらい高いよ。
でも半分ぐらいまで車で登れるから、少し安心。
ここは山名宗全の三代前・山名時氏が築いた城だよ。 |
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二上山城は、南北朝時代、北朝年号で表すと文和年間(1352-56)に、そのころ因幡の国(鳥取県東部)に勢力をのばしていた山名氏により築城されたと推定されており、後に因幡の国守護所とされました。
現在、標高346.6mの山頂にある一の平を起点とし、北東方向へ二の平、三の曲輪と展開する主要部のほか、八ヵ所の出城の跡が残されています。
巨濃郡(現在の岩美町・福部村)で産出される金・銀・銅といった鉱山資源、当時の因幡の国の中心地であった現在の国府町方面への交通路の確保、そして古くからの海運で栄えていた岩本の湊をおさえるといった経済的な面を持つ一方で、二上山城は軍事的・戦略的にも非常に優れた立地条件を備えていたと考えられます。
日本中を争乱の渦に巻き込んだ南北朝時代には、全国各地に数多くの山城が築かれましたが、その一つである二上山城は、戦いのために機能のみを備え、住居施設としての役割が完全に分離された典型的な南北朝期の山城と言えます。
しかし、標高300mを越える山城は、麓の館と離れていて不便であること、また因幡守護所としては位置的にあまりにも但馬の国よりであることなどから、やがて守護所移転という事態をむかえました。
また戦国時代の半ばになると、城は軍事面以上に、政治・経済といった社会的中心地としての性格をよりはっきりと持つようになりました。
また鉄砲の出現に代表される戦術の変化なども追い打ちをかけ、やがて二上山城は城としての機能を失っていくことになるのです。
『現地案内を参照』
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「階段」
途中の道路工事中まで車で登り、そこからは整備された道だよ。 10分ぐらいで「東の出城」、日本海まで見える出城だよ。
しかしまだ1km、長い「木の階段」が続く。
上を見るとくらっとなるので、下を向いて階段を登る。
考えているのは「次の段にヘビ君がいたらどうしよう」と「隙間に足が挟まったら、どうやって抜こう」かな。
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全体が大きいから、分かりにくいけど堀切かな。
「塩冶高貞の話」の続き。
妻は自害し、その菩提をとむらうために建てられたのが姫路の「円通寺」、この夏には行ってみるよ。
それと、加古川の「七騎塚」も行かなければ。 |
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二の曲輪と本丸との間かな、登りでは気が付かなかったけど。
道から少し中に入ると、曲輪には沢山の石が並んでいたり、バラバラになっていたり。 |
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左が本丸、一周回るよ。
この辺りに石垣があるのだけど、なかなか見つからないね。 |
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「あった」
じっくり見ないと、分からないけど、中へ5m、上へ3mぐらい。 でも草木で入れない。
覚悟を決めました、軍手をはめタオルで顔に覆う。 全ての荷物を置いて、中へ入ります。
顔に葉っぱを絡ませ、こそばいけど、ゆっくりゆっくり入ります。 |
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大きな木が倒れて、石垣を直撃している、石が落ちそう。
静かに前へ、横は大丈夫か、足は滑りそう、何に捕まればいい。
写真をとる、前向きに降りるとすべる、登った姿で降りなければ。 緊張したよ。 |
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一周回って、最後に本丸へたどり着く。
広いよ、所々に石の表面が草に隠れているね。
山名時氏がいたんだ、後醍醐天皇・足利尊氏・新田義貞・楠木正成の登場、全ては「太平記の物語」の中。
ここには本物の山名時氏がいたんだね。 |
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「日本海の方」
夏休みで思い出す、6時半には町内全員で体操して、山でカブトを探し、10時までは「夏の友」をする。
この二上山城で塩冶高貞の事を教えていただいた。 さっそく加古川に行って「七騎塚の碑」を見るよ。
ここは鳥取、住んでる近くの「出来事」を教えてくれた暑さを忘れないよ。
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