勝山城
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鳥取県鳥取市気高町勝見
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鳥取市街の9号線を西へと走ります。 湖山池を過ぎ、白兎海岸をさらに西へ、浜村温泉の街の南には、標高80mの山頂に勝山城(かつやま)があります。
2005年7月、もうすぐ夏休み。 暑い暑いとラジオは語る、水の流れに合わせて歩く、思い出すのは青春の暑さなのかな。
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鳥取のお城も久しぶり、去年の10月、鹿野城以来かな。
鳥取県に来るのも楽しみ、青春の頃なら姫路から29号線、ちょっと砂丘を見に行こうか。
山名氏・尼子氏・毛利氏、お城を見に行こうか。
一度でいいから言ってみたかったよね。 |
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延元五年(1340)、後醍醐天皇の建武の新政が崩れた頃、山名時氏と子・師義は塩冶判官高貞を討伐し、因幡と伯耆の守護になりました。
因幡には二上山城、伯耆には田内城を築き、山名氏に従い因幡に来た首藤豊後守が勝山城を築くのです。
観応年間(1350-52)、足利尊氏と弟・直義が争う「観応の擾乱(じょうらん)」で、最初尊氏に味方した時氏は、直義側の南朝方となり京都進撃をはかりました。
しかし尊氏の子・義詮が後光巌天皇を奉じて上洛、播磨からも赤松勢の進撃により、山名勢は伯耆に退却するのです。
正平九年(1354)、時氏は足利直冬(直義の養子)を奉じて、伯耆から京都を目指すと、対する足利義詮は佐々木道誉や赤松則祐軍を率いて、山崎の西、神内(大阪府高槻市)に陣を構えて応戦、時氏は伯耆へ逃げ帰るのです。
その合戦で、首藤豊後守は「伊田氏、波多野氏、河村氏、大庭氏ら侍八十四人、一族郎党二百六十二人が討死した中に首藤氏もみられた」とあります。(神内合戦:こうない)
大永四年(1524)、出雲の尼子経久は伯耆に侵入し、諸城を落として羽衣石城に尼子国久を置いて因幡の山名氏と対立しました。
永禄年間(1558-70)、尼子経久の子・正久(政久)は、因幡に侵入し勝山城を落として、首藤氏に代わって城主になるのです。 (政久は1518に戦死、年代が合わないので政久ではないと思われる)
天正年間(1573-92)、秀吉の命令で鹿野城主・亀井新十郎茲矩は近くの諸城を攻めたのですが、この勝山城は堅固で容易に落とすことはできませんでした。(当時の勝山城主は不明ですが、毛利方と考えられる)
亀井茲矩は気高町宝木の集落で兵を伏せさせると、村人がこのことを勝山城に知らせました。 勝山城主は兵を率
いてこれを攻めると、その隙に亀井茲矩は勝山城を落とすのです。 (もう少し詳しく分かれば修正します)
『参考文献を参照』
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「登山口」
今では中国自動車道「佐用IC」から、373号線で岡山の武蔵の里を通り、53号線で鳥取かな。
少しづつ高速ができているから、嬉しい。
ここは鳥取市の西、鹿野城から真北の浜村温泉、勝山城跡公園の西側、気高署がある所だよ。 |
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「長泉寺」
ぐるっと東に回ると長泉寺。
めだか取りの父子、親切に教えていただき、お寺の南側から登る。
70年代の歌のCDがほしいな、最近思う。
「真夏の太陽ー」も好きだけど、「線香花火はもう消えたー」をゆっくり聴きたいな。
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「観音霊場」
勝山城は観音山といって、西国三十三所の石仏が祀られています。
山頂は東西54m、南北14mの平らな所、昔は町内の運動会も行われていたらしい。
小さい頃、池の周りをトラックにした町内運動会もしていた、皆な気合が入っていた時代なんだよ。 |
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「日本海」
海の風景、手前が浜村温泉かな。
北側の丸太の道を降りるコース、おじいさんと孫。 かわいい虫カゴ、一匹の蝶を見せてくれた。 ありがと。
「こんにちはー、世界の国からー」、マンモス見ながら聞いてみたいよ。
月の石、元気な日本、あの頃の自分、きっと思い出して涙するね。
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「東の風景」
山麓の鳥居から道路に出てくる、田んぼが広がる。
めだかの網を持った父子、また会ったよ。
小川の水、流れは少年と同じ歩幅かな、鳥取に来て急ぐこともないよね。
元気な70年代、もう一度、虫カゴ片手に、めだかを追いかけてみようかな。 |
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