鳥取城
|
鳥取県鳥取市東町
|
|
Top お城の一覧 探索一覧 写真一覧 |
|
|
鳥取市街、北は日本海そしてすぐ南には1000m級の中国山地。 鳥取は七世紀 『日本書紀』の頃、因幡と伯耆の国がおかれました。
そして幾年かの月日は流れて中世・戦国時代、ただ偶然にその時代に生まれたというだけで、多くの人生が奪われてしまいました。
|
|
|
|
|
山麓には「ニの丸」「三の丸」「天球丸」などがあります。
関ヶ原後の池田長吉時代が大改築を行いました。
鳥取城の石垣は、国道沿いからは見えにくいのですが、ほんとうにみごとな石垣です。 |
|
|
|
|
鳥取城は、戦国時代中頃(天文年間)に、久松山の自然地形を利用した山城として築かれたことに始まります。 以後、因幡地方の政治拠点となり、近世においては因幡・伯耆二国の支配拠点の城として長い間存続しました。
このため、鳥取城跡には、中世の山城的遺構と近世城郭遺構が併存しており、日本城郭史上でも類例の少ない城跡です。 このことからも、学術的・歴史的にも貴重な城跡として昭和32年に国の史跡に指定されました。
鳥取城の築城時期については諸説ありますが、この城が因幡支配の拠点の本城となったのは、武田高信の時期であり、後に山名豊国がここに移ります。
この頃の鳥取城の中心は、山上ノ丸とそこから西方に延びる非常に急な尾根を中心に設けられており、現在も斜面を平らに削った平坦な遺構が数多く残っています。
山頂を中心とした山上ノ丸は、久松山を大きく切り開き、その廻りを高い石垣で囲っています。 本丸には、天守櫓・車井戸・多聞櫓・月見櫓等を設けていました。
天守櫓は、元禄5年(1692)に落雷のため焼失し、再建されることはありませんが、その他の建物は明治時代の初めまで残っていました。
山上ノ丸には、本丸の他にも東側に二ノ丸、三ノ丸とよばれる曲輪があり、一段低いところに出丸が設けられています。 西の尾根を下ると鐘ケ平、太鼓ケ平、松ノ丸などの曲輪が残されています。
なお鳥取城は戦国時代の末に、織田氏と毛利氏の対立から二度にわたって、秀吉の攻撃を受けています。
天正9年(1581)、秀吉と鳥取城将・吉川経家との戦いは「鳥取の渇え殺し」として知られ、そのときに秀吉が築いた陣跡が本陣山に残り、太閤ケ平として鳥取城跡とあわせて指定されています。
『現地案内を参照』
|
|
|
|
|
|
|
「鳥取城城門」
本当ならこの城門から入るのですが、東にある高校に多くの石垣が使われていたので、そこが城跡と思い、学校の横から這い上がっていきました。
最近、山城ばかり行ってるせいか、素直に城門から入ることを忘れていたのです。 |
|
|
|
|
この工事の時、池田長幸夫人に付いていた「お左近(おさご)」は美しく化粧をし、小袖に袴姿で音頭を取りました。
おかげで人夫は気合が入り工事が大変はかどりました。
石垣には「おさごの手洗鉢」が埋め込まれています。 |
|
|
|
|
|
|
享保五年(1720)、城下から出た火で建物が焼け、その後再建されたのですが、明治十二年、陸軍省の手でことごとく解体されたそうです。
|
|
|
|
|
「山上の丸への登山口」
高校のグランドでは、野球の練習をしています。 うさぎ飛びで鍛えるには少し辛い石段が山頂まで続きます。
まずは一合目。 |
|
|
|
|
|
|
汗だくで十合目です。
ようやく山上の石垣が見えました。
ここには、天守櫓・車井戸・多聞櫓・月見櫓がありました。
元禄五年(1692)、天守櫓は落雷のために焼失し、その後は再建されませんでした。
山頂にはロープウェイ乗り場跡があります。 きっと昭和時代の跡ですね。 |
|
|
|
|
「砂丘、そして海」
砂丘、日本海、市内の街並み、ここちよい風の中で両手を広げ、目を閉じると、まるで帆先状態です。
鳥取に来てほんとうによかったです。
もし願いが叶うなら、ここからの夜景を見てみたい。 いつの日か再び来る時があるならば。 |
|
|
|
|
|
|
「吉川経家の像」
切腹の前日、本家・吉川広家にあてた遺言書には「織田信長と毛利氏という日本二つの弓矢の正面対決での切腹を大きな名誉と思う」とありました。
吉川経家・三十五歳。 |
|
|
|
|
「仁風閣(じんぷうかく)」
お城のすぐ前にあります。
明治40年に大正天皇のご宿舎として、もと鳥取藩主・池田侯爵によって建てられました。
殿下のご到着の当日に、鳥取県下では初めて電灯が灯されたそうです。
フレンチルネッサンス様式だそうです。 すごくきれいな建物です。 |
|
|
|
|