放生津城
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富山県射水市中新湊
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北陸自動車道「小杉IC」から国道472号線を富山湾に向かって北へ走ります
国道8号線を越えて間もなく415号線へ、富山新港の西側には、放生津城(ほうじょうず)がありました。
2009年10月、初めての富山探索。 一時は政治・経済・文化の中心だったんだ。
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白鳥城からずいぶん北へ走ったよ。
ここは放生津小学校、北側には案内がある。
足利将軍が来ていたとは、知らなかったよね。 |
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放生津城は、放生津国(現在の富山新港)の西側にあった平城です。
南北朝時代の軍記物語「太平記」には、元弘三年(1333)、鎌倉幕府滅亡の際し、越中守護・名越時有が一族とともに放生津の城で最期を遂げたと記しています。
室町時代には、越中守護・畠山氏の重臣で、射水郡、婦負郡の守護代である神保氏の居城となりました。
明応二年(1493)、室町幕府十代将軍・足利義材(義尹・義植)が京都の政変を避けて越中に逃れてきました。
義材は、放生津城主・神保長誠(ながのぶ)に支えられて放生津に幕府政権を樹立し、京都の幕府重臣・細川政元と対抗するのです。
義材のもとへ、公家、大名が出仕し、禅僧や歌人ら多くの文化人も訪れ、放生津は北陸の政治・経済・文化の中心地として栄えました。
永正十七年(1520)、神保長誠の子・慶宗が越後守護代・長尾為景(上杉謙信の父)の侵略を受けて自害しました。
このため、神保氏は拠点を富山城に移しました。 安土・桃山時代には加賀前田氏の武将が入り、江戸時代の初め頃には廃城となるのです。
江戸時代後期には加賀藩の蔵屋敷となり、明治時代になって新湊高等小学校(現在の放生津小学校)校舎が建てられました。
江戸時代の記録によると、城は本丸・二ノ丸からなり、本丸は南北約126m、東西約81m、二ノ丸は南北50m、東西約36mの大きさでした。
『現地案内を参照』
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グランドの北側、大きな土塁があるよ。
野球とかサッカーすると、丁度土手みたいな囲いになるのかな。
ここが北陸の中心として栄えたんだ、今では静かな港町、歴史の移り変わりが、激しすぎたのかな。 |
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