慶長五年(1600)、関ケ原の戦いの後、紀伊国には浅野幸長(よしなが)が入国し、田辺には浅野左衛門佐氏重が入りました。
浅野氏は慶長十一年(1606)、会津川左岸河口に築城し移るとともに、あらたに城下の町割を行いました。 田辺城はこの時に形づくられ、その城下は今日の田辺市街地のもととなりました。
元和五年(1619)、徳川頼宜が紀州藩主となるとともに、頼宜の付家老であった安藤帯刀は、3万8000余石を与えられ田辺領主となり、以後幕末までこの城は安藤氏の居城でした。
徳川幕府の一国一城制により、公的には館と称しましたが、幕末には錦水城とも呼ばれました。 安藤家は紀州藩の筆頭家老として、和歌山に常駐し、田辺は親類の安藤小兵衛家が留守居役として、代々城代家老を務めました。
城の河口近くには、埋門型の水門を利用した記録も多く残っています。
明治三年(1870)、田辺城は廃城となり、早くに姿を消してしまうのですが、現在、僅かに水門が昔の面影を残しています。
『現地案内を参照』
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