文献上の所見は、九世紀初めの嵯峨天皇の時で、後宮の拡大に伴って新設された建物と考えられていますが、天皇の常住の御所となるのは宇多天皇の時からであり、庭を隔てた東の仁寿殿も機能を引き継いでいます。
清涼殿では叙位・除目などの政務や四方拝などの年中行事が行われました。 長暦3年(1039)の後朱雀天皇の時の内裏火災以降は里内裏の活用が増え、清涼殿はほとんど使用されなくなりました。
建物は、天皇の日中の御座所であった昼御座など南半分が公的施設、夜御殿と呼ばれる寝所など北半分が私的生活の場に分かれていました。
夜御殿の東には夜居の護持僧の間があり、この北には后妃の伺候した弘徽殿上御局・藤壺上御局などがありました。
一方、西庇には鬼間、台盤所、朝餉間(あさがれいのま)、御手水間、御湯殿上など日常生活に欠かせない施設があり、南庇には公卿・殿上人の詰め所の殿上間がありました。
「源氏物語」に登場する清涼殿は、冒頭の「桐壺」で帝が愛する桐壺更衣を亡くし、悲しみのあまり食事に手を付けなかった様子が描かれ「紅葉賀」では清涼殿の東庭で身重の藤壺女御を前に、光源氏が頭中将とともに青海波(せいがいは)を舞う描写があります。
光源氏の元服は清涼殿の東庇で行われています。
『現地案内を参照』
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