明智光秀の塚
京都府京都市東山区三条通白川橋下る東側梅宮町
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  天正10年(1582)6月2日、光秀は本能寺に宿泊していた信長の命を奪いました。

しかし備中高松城から引き返した秀吉と山崎で戦い敗れ、わずかな家臣とともに坂本城をめざす途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われ自害し家臣に首を打たせました。

首は粟田口で重臣とともにさらされ、数日後近くに埋められ、塚が築かれました。
  
  その塚が蹴上付近にあり、三条通北側の人家の裏側にあると多くの書物に記されています。

江戸時代、蹴上の塚にあった石塔婆(いしとうば)がこの地に移され、光秀の首が埋められた地として伝わっているのです。

『現地案内を参照』
  
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