多田弥太郎顕彰の碑
兵庫県豊岡市出石町暮坂
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兵庫県の幕末史跡1
文政9年出石藩多田義徳の長子として生まれ、弘道館に学び、藤沢東?(とうがい)・古賀?庵(どうあん)に就いて朱子学を学び、高島秋帆(しゅうはん)の高弟大木藤十郎から西洋砲術を学びます。
国防の策を水戸斉昭に献じたり、屯田兵制度を起こし蝦夷を北海道と改称しています。
文久3年、三条西中納言季知(すえとも)の詔により、同士高橋甲太郎と共に京師(けいし:京都のこと)に赴く途中、七卿の都落ちを聞き、追尾して長州に至ります。
平野国臣等の生野義挙に、高橋甲太郎・中条右京と共に参加、しかし敗れ長州へ落ちのびました。
挙兵の志士の多くは山口妙見山麓で自刃しましたが、弥太郎は八鹿町寄宮の駅で藩吏(はんり:役人)に捕われ、出石に送られる途中浅間峠において惨殺されるのです。
『現地案内を参照』
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