山内容堂公 誕生の地
高知県高知市追手筋2-7-11
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  文政10年(1827)10月9日、高知城下で生まれます。

嘉永元年(1848)12月27日に藩主に就き、革新派の吉田東洋を起用、軍備・財政・文武・身分などの藩政改革を行いました。

福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち、幕末の四賢侯と呼ばれていました。
  
第13代・徳川家定が病弱なため、四賢侯らは次期将軍に一橋慶喜を推していましたが、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福を推しました。

そして直弼は政敵を排除する、「安政の大獄」を行い、慶福は14代・家茂となりました。

容堂は隠居を幕府申し出ると、四賢侯は共に幕府より謹慎を命じられます。

安政7年3月、「桜田門外の変」が起こると、土佐藩でも武市瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭し、吉田東洋と対立、ついには東洋を暗殺、山内容堂は東洋を暗殺した土佐勤王党の弾圧を行い、武市瑞山に切腹を命じるのです。

東洋暗殺の直前に脱藩していた坂本龍馬、中岡慎太郎らの仲介により薩長同盟が成立、しだいに討幕へと流れが変わります。

坂本龍馬の「船中八策」を後藤象二郎が容堂に進言、容堂は徳川慶喜に建白すると、慶喜は政権を朝廷に返還するのです。

明治維新後、東京都台東区の橋場の別邸で過ごし、連日酒桜にて豪遊、飲酒が元で倒れ46歳を生涯を閉じるのです。

『Wikipediaより』

    
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