第13代・徳川家定が病弱なため、四賢侯らは次期将軍に一橋慶喜を推していましたが、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福を推しました。
そして直弼は政敵を排除する、「安政の大獄」を行い、慶福は14代・家茂となりました。
容堂は隠居を幕府申し出ると、四賢侯は共に幕府より謹慎を命じられます。
安政7年3月、「桜田門外の変」が起こると、土佐藩でも武市瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭し、吉田東洋と対立、ついには東洋を暗殺、山内容堂は東洋を暗殺した土佐勤王党の弾圧を行い、武市瑞山に切腹を命じるのです。
東洋暗殺の直前に脱藩していた坂本龍馬、中岡慎太郎らの仲介により薩長同盟が成立、しだいに討幕へと流れが変わります。
坂本龍馬の「船中八策」を後藤象二郎が容堂に進言、容堂は徳川慶喜に建白すると、慶喜は政権を朝廷に返還するのです。
明治維新後、東京都台東区の橋場の別邸で過ごし、連日酒桜にて豪遊、飲酒が元で倒れ46歳を生涯を閉じるのです。
『Wikipediaより』
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