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維新の道。
坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允(桂小五郎)・平野国臣・宮部鼎蔵をはじめ蛤御門の変・天誅組の義挙等に加わった志士の墓三百余基があります。
全体で千三百五十六柱が合祀されており、この地は明治維新を偲ぶ大霊域・史跡となっています。 |
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天誅組の人々。
文久3年(1863)8月13日、大和行幸の詔が出るや土佐の吉村寅太郎をはじめ、三河刈谷の松本謙三郎・備前の藤本鉄石(津之助)等は、侍従中山忠光を盟主に立て、倒幕のため挙兵に出た奈良県五條代官所を襲撃、成功を収めます。
しかし8月18日の政変により事態は急変、行幸は中止となると、直ちに幕府は諸藩に彼らの追討を命じ、応戦するも十津川郷士の離反などから敗走を重ね、秀でた志士を失うこととなりました。 |
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吉村寅太郎は同藩の間崎滄浪(まさきそうろう )らについて文武を学び、その成績極めて優秀にして、他の志士たちより容姿端麗、同志間ではひと際目立つ存在であったといわれ、「おくに」という娘との清純な恋愛を通じ、ひととき青年としての喜びを感じていました。
9月27日 傷を負い敗走中、大和鷲家口で藤堂藩兵に囲まれ、もはやこれまでと「吉野山風に乱るるもみじ葉はわが打つ太刀の血けむりと見よ」と辞世を残し、銃弾を受け敗死、享年二十七歳。
天誅組総裁・藤本鉄石は、同志中最年長の四十八歳にして文人墨客で、昼は一心に絵を描き、夜は志士たちと会談を重ね、回天の策をめぐらすという二重生活を送ていましたが、天誅組に加わって後、奮闘するも敗走の途中戦死しました。
天誅組総裁・松本謙三郎は、十八歳の時、槍術の稽古中に左眼を失明、吉野山中での激戦にて敵弾を受け、右眼を失い自刃しました。
過激な尊攘派で知られる公卿中山忠光は、血路を開き大阪から海路長州へと逃れましたが、元治元年(1864)11月、潜伏先の豊浦郡田耕村にて暗殺され、二十歳の短い人生を終えました。
天誅組は倒幕の急先鉾であり、憂国の士の集団でありましたが、彼らの純粋な想いだけを残し短期に壊滅したのです。 |
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桂小五郎 幾松の墓所。
維新三傑の一人、桂小五郎。
容姿端麗にして神道無念流の達人。
吉田松陰の門下生で理性もあり流血に縁遠く、一生人を斬ったことがないと云われ、この点は北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬に似ています。 |
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勤王芸芸妓の第一人者 三本木の幾松とのロマンスは、文久元年の頃、桂小五郎二十八才、幾松十八才、相思相愛の仲となり、激動の時代のなかで苦楽を共にし、そして結ばれました。
勤皇の志士と云われる志士たちの最後は大方悲劇に終わっていますが、明治10年(1877)5月26日に四十五才で病死するまで、動乱の幕末を駆け抜け、維新後も活躍し、陽のあたる道を歩んだ幸運児ともいえます。
幾松も同じで、維新の大業成るや正二位侯爵 木戸孝允の妻となり、従四位を賜るほどの女傑。
此処霊山に建立されている勅碑からも伺え知ることができます。 |
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水戸藩招魂社。
明治維新時に国事にたおれた水戸勤皇殉難烈士千七百八十五柱が合祀されています。
元治甲子の変(一千七十四柱) 、安政の大獄(七柱)
桜田門外の変(二十一柱) 、東禅寺の変(十一柱)
坂下門の変(五柱) 、越前敦賀の殉難(三百四十五柱)
その他(三百二十二柱) |
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右 中岡慎太郎 左 坂本龍馬 左奥 下僕 藤吉。
徳川慶喜大政奉還劇の大作者である坂本龍馬は、河原町三条下る材木商酢屋嘉兵衛方に寓居していましたが、遭難十日前に醤油商近江屋新助方に転居します。
坂本龍馬は当時、最も幕府側から狙われていた志士で、新選組・見廻組らの追及が急となり、藩邸の堀内慶助らの気遣いから近江屋を選んだのが仇となったのです。 |
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慶応3年(1867)11月15日午後6時ごろ、盟友・中岡慎太郎が訪問、この2,3時間後、会談中の彼らは刺客の襲撃に遭うのです。
坂本龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は右の肩から左背骨にかけ、三の太刀で更に前額部を裂かれて悲痛なる一言を残して倒れました。
中岡慎太郎も全身に刀傷を負い、二日後の十七日の夕方に息を引き取りました。 |
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十八日、近江屋において葬儀が行われ、ここ霊山に埋葬された。
昭憲皇太后の夢枕にひとりの侍の影が立ち現れて「微臣坂本にございます。
このたびの海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。 不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえご安心願いあげます。」
と言い残すと消えたという。
坂本龍馬。 志士中の一級志士と云っても過言ではない。 |
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明治維新 1868年。
近江屋事件の翌年なんだよね。
『現地案内を参照』 |