乙女ヶ池
滋賀県高島市勝野3061-1
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天平宝字8年(764)、「恵美押勝の乱(えみのおしかつ)」の戦場となり、敗れた押勝(藤原仲麻呂)とその一族郎党が捕らえられて処刑された「勝野の鬼江」と推定されています。
孝謙天皇と道鏡に対して、軍事力をもって政権を奪うとした乱だね。
また背後の山中には「壬申の乱(672)」の際、近江朝(大友皇子軍)の基地であった三尾城の存在が考えられるなど、日本の古代史上の二大戦乱の場となった所です。
中世の戦乱期には、武将たちは山中に城や砦を築いて領地の護りとしていました。
軍事上この地を重視した信長は、甥の信澄に大溝城を築かせて、この池は琵琶湖に通じて外濠としての役割を持っていました。
昭和初期、淡水真珠の養殖場として利用された頃から「乙女ヶ池」と呼ばれるようになりました。
『Wikipediaを参照』
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