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神戸水天宮 | ||
神戸市長田区長田天神町5丁目 | ||
御祭神は安徳天皇、母・建礼門院、御祖母・平従二位時子です。 | ||
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明泉寺 (平知章の墓所) |
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神戸市長田区明泉町2-4-3 | ||
知章、侍の監物太郎頼賢、主従三騎は湊の方へ落ちていく途中、源氏方の児玉党十騎が襲い、敵を倒して立とうとした時、敵兵に首を取られるのです。 | ||
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平盛俊の墓所 | ||
神戸市長田区庄山町3丁目2 | ||
平盛俊(もりとし)は、平家屈指の武将で明泉寺に布陣していましたが、義経の「坂落し」によって陣を破られ、小平六により討ち捕られます。<られます。/td> | ||
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駒林神社 (平清盛上陸の碑) |
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神戸市長田区駒ヶ林町3-7-3. | ||
務古の水門の一部にあたり、治承2年(1178)には平清盛が上陸したとの記録「山槐記」もあり、古代の要津でした。 | ||
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宝満寺 | ||
神戸市長田区東尻池町2-11-1 | ||
宝満寺は弘法大師が開創し、もとは和田山通にありましたが、治承4年(1180)に平清盛が福原内裏造築のとき、現在の地に移したと云われています。 | ||
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平盛俊の塚 | ||
神戸市長田区名倉町2丁目 | ||
源平合戦の際、この近くで、陣をしいていたが、源義経のひよどり越えの急襲により源氏方の猪俣小平六と組み討死をするのです。 | ||
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平忠度胴塚 | ||
神戸市長田区野田町8丁目 | ||
一ノ谷の合戦において敗れ、駒ケ林へ落ちていく途中、源氏の武将・岡部六弥太忠澄に討たれ、惜しくもこの地で戦死します。 | ||
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平忠度腕塚 | ||
神戸市長田区駒ケ林町4丁目 | ||
忠盛は岡部忠澄の家臣に右腕を切り落とされます。 腕塚は切り落とされた腕を埋めたところで、腕、腰、足の痛みが治ると信仰されています。 |
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長田神社 (谷御所橋) |
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神戸市長田区3丁目1-1 | ||
平清盛が、この地にいた谷家を見初め、側室として嫁がせた時に渡った橋として谷御所橋と呼ばれています。 | ||
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源平勇士の碑 (平知章の碑) |
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神戸市長田区五番町8丁目 | ||
平知章(ともあきら)は、生田の森の大手を守っていた大将軍である父知盛(とものり)の危急を救って自ら討たれます。 | ||
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源平勇士の碑 (平通盛の碑) |
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神戸市長田区五番町8丁目 | ||
一ノ谷の合戦で討たれた平通盛(みちもり)、源氏の木村源吾重章、同じく猪俣小平六則綱(平盛俊を討ち取った人物)らの碑が、この付近の西国街道に面してありました。 | ||
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源平勇士の碑 (木村源吾重章 猪俣小平六則綱) |
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神戸市長田区五番町8丁目 | ||
のち、長田区明泉寺付近で討たれた平知章の碑をここに移し、敵味方のへだてなく源平勇士の碑として、あわせ弔ったといわれ、つわものどもの夢の跡といった姿になりました。 | ||
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監物太郎頼賢の碑 | ||
神戸市長田区五番町8丁目 | ||
生田の森の大将平知盛(とももり)は部下すべて落ちふせ、子・知章、家臣・監物太郎頼賢と主従三騎で渚の方へ落ち延びようとしましたが討ち取られるのです。 | ||
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須磨浦公園 (源平史跡 戦の浜) |
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神戸市須磨区一ノ谷町 | ||
一ノ谷合戦で平家軍の陣があったところです。 | ||
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須磨寺 (一ノ谷合戦) |
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神戸市須磨区須磨寺町4丁目6-8 | ||
17歳で一ノ谷の戦いに参加し、平家が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとしたところ、熊谷直実に「敵に後ろを見せるのは卑怯なり」と呼び止められます。 | ||
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須磨寺 (敦盛首塚) |
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神戸市須磨区須磨寺町4丁目6-8 | ||
敦盛は「すみやかに首をとれ」といい、直実は涙ながら敦盛の首を取りました。 | ||
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須磨寺 (敦盛公首洗いの池) |
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神戸市須磨区須磨寺町4丁目6-8 | ||
謡曲「敦盛」は、戦乱の巷では敵であった者同士が、極楽浄土で共に成仏する運命にあった事を作曲された修羅物です。 | ||
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須磨寺 (源義経腰掛松) |
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神戸市須磨区須磨寺町4丁目6-8 | ||
敦盛公首洗い池の向かいにあるよ。 義経はこの松に腰掛けて、敦盛の首実験をしたと云われているよ。 |
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敦盛塚 (胴塚) |
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神戸市須磨区一ノ谷町 | ||
敦盛を討った熊谷直実は、出家し菩薩の為古戦場を訪ねます。 敦盛の霊は草刈男の姿で迎え、共に極楽往生のできることを喜びつつ消え去るのです。 |
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安徳宮 (安徳帝内裏跡) |
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神戸市須磨区一の谷町 | ||
源平の戦いで源氏に追われた安徳帝は、平家一門に奉じられて西走の途中、一ノ谷に内裏を置かれたと云われています。 | ||
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村上帝社 | ||
神戸市須磨区須磨浦通4丁目88-11 | ||
藤原師長は琵琶の名人であったが、さらに奥儀をきわめたいと入唐の志をもって、この須磨の地まできました。 ところが、村上天皇と梨壷女御の神霊が現れて、琵琶の妙手を授けたので、入唐を思いとどまり京へ帰ります。 |
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平重盛とらわれの松 | ||
神戸市須磨区須磨寺町2-1-1 | ||
生田の森から副大将平重衡は須磨まで逃れて来たが、馬を射られ、源氏方の梶原景季と庄高家(庄家長)により捕らえられました。 | ||
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頼政薬師寺 | ||
神戸市須磨磨区桜木町1丁目4-6 | ||
久寿の頃(1154-55)、鵺(ぬえ)退治で有名な源三位頼政が再興したことから、俗に頼政薬と言われています。 | ||
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義経腰掛の松 | ||
神戸市須磨区多井畑清水11-8 | ||
義経一行が多井畑厄神八幡宮で戦勝祈願をした後、この松の下で一休み。 そして一ノ谷へ向かうんだね。 | ||
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北向八幡神社 (那須神社) |
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神戸市須磨区妙法寺岡 | ||
義経は村人から御神威が高く飛ぶ鳥でさえ社殿の上空を飛べない社があると聞き、与一に武運長久を祈らせたのです。 | ||
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那須与一の墓 | ||
神戸市須磨区妙法寺岡満林24-8 | ||
晩年に与一はこの地へお礼参りに訪れますが、中風の病のためここで亡くなったと云われています。 | ||
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妙法寺 | ||
神戸市須磨区妙法寺妙法寺毘沙門1286 | ||
平清盛が福原に都を移したときに、平安京の鞍馬になぞられ、ここを「乾の方向・新鞍馬山」といて王城鎮護の霊場とし、寺領として一千石余りを寄進したと云われています。 | ||
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勝福寺 | ||
神戸市須磨区大手町9丁目1-1 | ||
平清盛が経ケ島築造の際、この寺の衆徒達が大いに協力したので、重要文化財となっている金銅製の密教法具(火舎・花瓶・六器)のほか築島供養式の際の幡などが寄進されています。 | ||
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法界寺 (平相国清盛参詣祈願の寺) |
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神戸市須磨区若木町2-3-30 | ||
承安元年(1171)、平相国清盛公大輪田泊修築の折から清盛公参籠祈願の寺として発展しました。 | ||
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源平合戦歿者供養塔 | ||
神戸市垂水区塩屋町梅木谷 | ||
一ノ谷城の西の城門に位置する塩屋の地は、城の内外の激しい戦いの中心になって多くの戦歿者の供養塔です。 | ||
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乙姫大明神 | ||
神戸市垂水区下畑町 | ||
福原に遷都を果たした平清盛が建立したと云われてます。 この地にあった「さざれ石」をご神体として、大陸に向かう船の無事渡海を果たせるように「乙姫大明神」と名付けたと思わます。 |
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石水寺 (平師盛公塚) |
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神戸市垂水区名谷町3115 | ||
平清盛の孫にあたる師盛は三草山の戦いで源義経に敗れたあと、一ノ谷の戦いで追っ手の畠山重忠の郎党により討たれてしまうのです。 | ||
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奥畑大歳神社 | ||
神戸市垂水区名谷町3143 | ||
寿永3年(1184)、源義経は一ノ谷合戦の前に必勝祈願をしました。 そして弓を引いたと云われ、今でも毎年1月には弓で的を射る「弓引きの神事」が行われます。 |
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如意寺 | ||
神戸市西区櫨谷町259 | ||
常行堂(阿弥陀堂)の横にある宝篋印塔は、平家滅亡のきっかっけとなった砺波山の平家の大将 平維盛(たいらのこれもり)を供養したものと伝えられています。 | ||
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櫨谷神社 (はぜたに) |
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神戸市西区櫨谷町福谷3 | ||
源義経が1184年1月15日、ヒヨドリの逆落とし(2月7日)の途上、一行百騎余りを櫨谷神社に駐屯させました。 義経が作戦を練るために腰かけたという「腰掛石」もあります。 |
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布袋寺 | ||
神戸市北区有野町二郎字宮ノ前779 | ||
布袋寺は、平教経の子孫である宮崎弾正二郎広綱の開基と云われ、大永年間(1521-28)に教経の念持仏である聖観音像を祀るため、この寺を建立しました。 | ||
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多聞寺 (新都守護) |
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神戸市北区有野町唐櫃3086-15 | ||
清盛が福原遷都のとき、丑寅鬼門の方角にあたるので、京の鞍馬山に擬して新都の守護として大いに栄ました。 | ||
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下唐櫃 山王神社 |
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神戸市北区有野町唐櫃536 | ||
山王神社は源義経が一ノ谷の戦勝を祈願して、弓矢を奉納したと云われています。 | ||
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丹生山 | ||
神戸市北区山田町衝原 | ||
三木から神戸へは丹生山を抜けたらしいけど、どこを通ったのかな。 山頂の帝釈山からの眺めは素晴らしいよ。 |
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福田寺 (ふくでんじ) |
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神戸市北区山田町東下後ケ市 | ||
丹生山を南へ降りると、道沿いには丹生神社の鳥居がある。 北の集落へ少し入るとの福田寺があります。 義経に道案内をした鷲尾三郎義久の菩提寺です。 |
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六条八幡宮 | ||
神戸市北区山田町中字宮ノ片57 | ||
保安4年(1123)、六条判官源為義が、この山田庄の領主であった時、夢想の霊感によって六条左女牛の八幡大神を京より勧請合祀します。 | ||
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義経 馬つなぎ松 |
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神戸市北区山田町下谷上中一里山 | ||
鵯越墓園の北の方にあります。 福原に集まった平家10万を攻めるために義経の軍勢がここに集まり、合戦の相談をしたんだ。 |
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蛙岩 | ||
神戸市北区山田町下谷上中一里山 | ||
墓園を南へ行くと、小さな「蛙岩 入口」の案内板があるよ。 中へ入ると大きな岩があるよ。 義経勢の逆落としの場所が一ノ谷ではなく、この蛙岩とも云われているんだね。 |
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鵯越の碑 | ||
神戸市北区山田町下谷上中一里山 | ||
墓園の一番南、入口にあるね。 義経軍は70騎でここを通り、「鵯越えの逆落とし」で有名な一ノ谷合戦へと突入するんだよね。 |
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六甲八幡神社 | ||
神戸市灘区八幡町3-6-5 | ||
後一条天皇の萬寿3年(1026)、この地に水原氏が八幡神を祀っていましたが、平清盛が福原遷都のとき、この旧跡に京都石清水八幡宮を勧請し、地名も八幡に改めたと云われています。 | ||
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厳島神社 | ||
神戸市灘区篠原北町3丁目16-7 | ||
神社の縁起となっている「福石」は、平清盛が平盛継に命じて討ち取った、頭に珠を担ぐ大蛇の首を埋めたうえに置いたおおきな石と云われています。 | ||
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