鷲尾三郎義久屋敷跡

兵庫県丹波篠山市鷲尾
兵庫県の源平史跡4  
 
篠山城から東側の544号線を北へ、城北交差点を過ぎて、更に北へ走ります。

大売神社を過ぎ、鷲尾の集落で西側に入り、公民館を過ぎて南にカーブすると山すそには鷲尾三郎義久の屋敷跡がありました。

寿永3年(1184)2月4日、源義経の平家追討軍は丹波路を駆け、途中、弁慶が道案内を年老いた漁師に頼みましたが、息子を代わりにと言われました。

義経がその若者に会うと、「鷲尾村の鷲尾良久の三男で、十七歳です」とのことでした。

義経は、立派な様子に満足し、鷲尾三郎義久と名乗らせ家臣に加えます。

 
義久は見事に鵯越えの案内役を果たし、その後も義経と行動を共にします。

文治5年(1189)閏4月30日、奥州平泉の衣川館で藤原泰衝らに襲われ命を落とすのです。

遺骨は郷里に届けられ、ねんごろに葬られたと云われています。

古くから「十郎屋敷」と呼ばれているこの地に供養塔が建てられました。

『現地案内を参照』

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