HOME

京都府 大阪府 兵庫県 奈良県
滋賀県 三重県 岡山県 広島県
鳥取県 山口県 石川県 徳島県
香川県 神奈川県    

[1]  [2]  [3]  [4]
   
弘誓寺
丹波篠山市宇土611
寿永3年(1184)、源平の兵乱の時、源義経が兵士を追って槇が峰にさしかかった時、千軒防に平氏の伏兵ありと見て、夜に火を放します。
風が強く、全山一時に焼き尽くしてしまうのです。 

     
誓願寺
丹波篠山市魚屋町46
お寺には、「源平合戦図」「六枚折屏風二双」などが保管され、源平合戦の山の戦いや海の戦いが、一双づつ描かれています。

 
春日神社
丹波篠山市小枕
義経が勝利を祈って馬の鞍を奉納しました。

地名小枕は、義経が奉納した鞍にちなみ、この鞍は春日神社に現存しているのだそうです。  

  
馬口池
丹波篠山市小枕
義経軍は鷲尾三郎義久に案内をさせて、小枕にある春日神社に鞍を奉納して戦勝祈願をし、近くの池で馬の口を洗い、水とかいばを与えます。 

  
 不来坂嶺
(このさか)
丹波篠山市不来坂
平氏がこの坂に兵を進めていると源氏側は予想していましたが、来ていなかったので「平氏不来坂」と呼ぶようになりました。 

   
名無木(ななしのき)
丹波篠山市不来坂
義経が使っていた鞭を地に刺して、「源家長久ならば芽を生じ、盛大に繁茂せん」と言ったところ見事に芽を出したそうです。

  
集坂
(つどいさか)
丹波篠山市住山
元暦年中、源義経がこの場所に将卒を集めて隊を整え、三草山に向けて撃走した所です。 

  
 鷲尾三郎義久屋敷跡
丹波篠山市鷲尾
寿永3年(1184)2月4日、源義経の平家追討軍は丹波路を駆け、途中鷲尾三郎義久を家臣に加えます。
鷲尾三郎は鵯越えの案内をするのです。 

  
 那須与市大権現
(瑞祥寺)
丹波篠山市井串17 
那須与市は義経に従い丹波通過の際、病気になり、観音寺(前のお寺)に参詣して快癒のうえ屋島で源平注視の中、見事に扇の的を射落します。 

  
龍蔵寺
丹波篠山市真南条上1474
源義経は城南村真南条を南下し、不来坂峠を越えて、一ノ谷へ行ったと云われています。
鷲尾三郎という人物を道案内にし、真南条街道の山上にある千間坊の寺や、龍蔵寺を焼き払いながら通過したそうです。

 
篭坊温泉
 丹波篠山市後川新田
寿永3年(1184)2月、一ノ谷の合戦で敗れた平家の落武者が、隠れ里にして、この冷泉を発見し、傷の手当をし、薬師堂を建てたと云われています。 

  
久下城
(源氏方の久下氏)
 
丹波市山南町玉巻、金屋< 
承久三年(1221)、一の谷合戦で戦功があった源氏方の久下氏は恩賞として丹波粟作郷の地頭職に任じられ重光の孫・直高がこの地に移り住みました。 

  
 山垣城
(源氏方の足立氏)
丹波市青垣町大字山垣字向
平治元年(1160)、足立遠元は平治の乱で源義朝に従い、治承4年(1180)の治承・寿永の乱では源頼朝が武蔵国に入った時、最初に迎えに参上しました。

 
書写山円教寺
(弁慶のお手玉石)
姫路市書写
摩尼殿の橋のたもとには護法石:別名「弁慶のお手玉石」があります。
石の上に乙天、若天のふたりの童子が降り立ち、寺門を守ったと云われています。

 
書写山円教寺
(弁慶の鏡井戸)
姫路市書写
寝ていた弁慶の顔に僧がいたずら書きをします。
右ほほの暴れ馬、左の平げたを見て僧たちは大笑い、弁慶はこの井戸で顔をうつし怒り、僧が火のついた棒で戦うも講堂の屋根に放り投げ、書写山は炎に包まれてしまうのです。  

 
 北野神社
(ごりんさん)
姫路市夢前町玉田125-2
弁慶の母親の墓で、若い家族に病人があると、この墓石を削り取って飲むと効験があると云われています。

  
弁慶地蔵
姫路市別所町別所
弁慶の母が、福居村(別所)の生まれで、山廼井といい、父は熊野神社別当である。
書写に預けられた弁慶が、京からの帰途、庄屋の娘玉苗と一夜を共にしたのがこの地と云われています。  

  
清盛塚古墳
姫路市山田町北山田
北山田には清盛塚や御大師山古墳があり、共に市川中流域東岸に大きな勢力をもっていた首長の権威を示す古墳です。
当地には平清盛にまつわる伝承が数多く残されています。 

  
 盛徳寺
(文覚寺)
姫路市網干区坂上292
平安時代末期の応保2年(1162)、文覚上人開基の寺と云われています。
往時をしのぶ「文覚上人像」と「文覚上人遺愛の石」を祀り、「文覚寺」と呼ばれていました。 

  
 文覚上人の腰掛け石
揖保郡太子町原
福井荘の主な水源に「福井大池」「福地河原」があり、福井大池は隣の大田荘内にあったため、池が埋められ、田地にされるという話で文覚上人は抗議したという話があります。

 
室山合戦
たつの市御津松室津
源頼朝の叔父に当たる源行家が兵を率いて播磨に入りました。
これを迎え撃つために平教盛・重衡は、ここ室山に陣を張り勝利し、一ノ谷へと向かうのです。

  
友君の塚 
たつの市御津町室津 
友君は木曽義仲の第3夫人で、京都では山吹御前と呼ばれていました。
義仲が命を落とすと、友君は播磨国へ逃れ、途中の室津で留まり、浄運寺へ出家します。

  
平知盛の墓所
佐用郡佐用町大畑77
通称「とももりさん」「知盛塚」とも呼ばれ、地元に伝わる落武者伝説、平家一族の知盛の供養塔(墓)との伝承が残っています。 

  
平家塚
赤穂郡上郡町小野豆
壇ノ浦の合戦で平家は惜敗、九死に一生を得た「平経盛」(清盛の実弟)は、小舟で瀬戸内の東方をめざし播磨の相生の入江に漂着します。
人目を避けながら、小野豆にたどり、ジャンジャン穴を見つけ生活をしました。 

  
播磨公弁円の墓
宍粟市山崎町川戸304-2
平清盛の嫡男・宗盛の一子副将能宗(よしむね)は治承4年(1180)に生まれ、6歳の3月、平氏一族が壇ノ浦に破れ、祖父母の住む川戸の地で16歳まで暮らしています。 

  
 福田寺
(壇の地蔵)
神崎郡神河川上
壇ノ浦の戦いに敗れた平氏が川上へも落ちてきたという伝説があります。
毎年8月23日には、壇ノ浦で入水された安徳天皇と平氏一族の冥福を祈るため、地元の方が花だんごをお供えします。

    
絵 島
淡路市岩屋
「平家物語」の「月見」の巻に『福原の新都に移った人々が、須磨から明石海峡を渡り、絵島の月を愛でながら歌会を催した』と記述があります。

    
静の里
淡路市志筑795-1
静御前のお墓です、となりには義経のお墓が並んでいます。
没後、一条中納言家の庄園であった、この地に葬したそうです。  

  
 ミチモリさん
(平通盛石碑)
淡路市楠本2805-7
寿永3年(1184)2月、一の谷の戦いで追われた平氏軍は淡路に渡ります。
そして「花さじき」あたりに隠れ住み、平通盛や一門の人を供養するために作ったと云われています。 

   
名馬 生月
(いけづき)
淡路市岩屋2109
寿永2年(1183)、宇治川の戦いの時、佐々木四郎高綱は源頼朝から拝領した名馬「生月(いけづき)」、一方「磨墨(するすみ)」に騎乗した梶原源太景季と先陣争いをし、高綱が見事一番乗りの功名をたてました。

[1]  [2]  [3]  [4]
 Top