兵庫県丹波篠山市宇土611 | |
兵庫県の源平史跡4 | |
「道の駅あおがき」を過ぎて「小倉交差点」から427号線を北(遠阪方面)へ3kmほど走ります。 遠阪小学校あたりで遠阪川を東側へ渡ると、その東側には標高235m(比高80m)の山頂に山垣城(やまがい)があります。 |
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平治元年(1160)、足立遠元は平治の乱で源義朝に従い、治承4年(1180)の治承・寿永の乱では源頼朝が武蔵国に入った時、最初に迎えに参上しました。 元暦元年(1184)、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時、足立遠元は各国や御家人を統治する行政機関「公文所(くもん)」の寄人の一人に任じられます。 正治元年(1199)、頼朝が没し、跡を継いだ源頼家に対する御家人の不満が高まると、北条時政や政子を中心に「13人の合議制」がとられ、足立遠元もそのうちの一人として、鎌倉幕府の要職についています。 |
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しかし、北条氏が権力を独占すると、源頼朝時代の重臣が次々に殺害されたのです。 最初は梶原景時、頼朝の弟・阿野全成、比企能員、そして源頼家も修善寺へ幽閉、その弟・実朝も殺害されました。 承元三年(1208)、この足立氏も中央から離れ、足立遠元の孫・遠政は丹波佐治庄の地頭職について山垣城を築き、一族が小和田城、遠阪城、烏帽子城、田ノ口城に入り丹波での地位を固めています。 『参考文献を参照』 |
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