藤戸合戦

岡山県倉敷市藤戸
岡山県の源平史跡 
 
瀬戸中央自動車道「早島IC」から2号線を西へ、倉敷川を渡る手前の信号で22号線を南へ走ります。

名田の信号から倉敷川の東側を走る道路を東南へ、瀬戸中央自動車道の高架下を超え、倉敷川を西側へ渡ると藤戸大橋三差路には「源平藤戸合戦八百年記念碑」が、さらに50mほど南東には藤戸寺、盛綱橋と経ケ島がありました。

   
    
寿永3年(1184)冬12月、源頼朝の命により、平氏討伐の為西下した源範頼の率いる源氏は、日間山一帯に布陣し、海を隔てて約2千m対岸の藤戸のあたりに陣を構え、平行盛を主将とする平氏と対峙します。

     
  
源氏には水軍が無かったので、渡海出来ず、平氏の舟から扇でさし招く無礼な挑戦に対しても、ただ悔しがるだけでした。

時に源氏の部将・佐々木盛綱かねてより「先陣の功名」を念かけており、苦心の末一人の浦男より対岸に通じる浅瀬の在りかを聞き出します。

  
    
夜半、男を伴って厳寒の海に入り瀬踏みをし、目印に笹を立てさせたが、他言を封じるため、その場で浦男の命を奪い海に流してしまうのです。

翌朝盛綱は、家の子・郎黨を従え、乗出し岩の処より海へ馬を乗り入れ、目印の笹をたよりにまっしぐらに海峡を乗り渡り、大音声に先陣の名乗りをあげるや、敵陣めがけて突入し、源氏大勝の端を開きました。

     
   
平行盛の軍勢を討った盛綱は戦功により、頼朝より絶賛の感状と児島を領地として賜ります。

海を馬で渡るなど絶対不可能と信じられていた時代に、それを敢行した盛綱の壮挙は、世間を驚かせ、永く後世に名声を伝えられることになるのです。

   
    
佐々木盛綱が備前国児島に入国し、訴訟ある者は申し出よと触れると、一人の老婆が、盛綱に亡き者にされたわが子を返してくれと訴えました。

盛綱は、その母を見てさすが哀れに思い、その亡き子の為に仏事を行うと、やがてその漁夫の亡霊が現れ、自分が亡き者にされた時の様を語り、供養を受けたお蔭で恨みも晴れ、成仏することができたのです。

  
 
藤戸寺は盛綱が源平両軍の戦没者の霊を慰め、敵陣一番乗りの手引きをしてくれた若者の霊を祀るため大法を営んだお寺です。

そして寺前の飛境内であった小島に、経を納め供養塔を建てたのが経ケ島で、この史実は謡曲「藤戸」として古来より広く演じられているのです。

『現地案内を参照』

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