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関白屋敷跡 | ||
岡山市中区湯迫743 | ||
関白藤原基房は兄・基実の遺領相続をめぐって清盛と対立し、清盛の憤りをかって、関白職を解任され治承3年(1176)には湯迫に流されたのです。 |
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松殿と桜姫 | ||
岡山市中区湯迫 | ||
治承4年(1180)春、松殿(関白藤原基房)の屋敷で桜の宴が催された時、地方豪族の一女の舞と歌が基房公の眼に止まり、「桜姫」の称を賜りました。 |
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藤原成親 遺蹟 |
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岡山市北区吉備津 | ||
京都、鹿ケ谷において平家追討の密議にやぶれ、藤原成親は治承元年(1177)、この地「有木の別所」に流されました。 成親は、有木山の中腹にある山寺で最期をとげたと云われています。 |
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妹尾太郎兼康公墓 | ||
岡山市北区吉備津1441 | ||
平清盛の信頼を受け、平家の侍大将として、寿永2年10月12日、木曽義仲の軍勢と、笹迫(ささがせ)や板倉城で戦い、討ち死にしたと云われています。 |
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妹尾太郎兼康頌徳碑 (盛隆寺) |
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岡山市南区妹尾1751 | ||
このお寺には木曽義仲の軍勢と、笹迫(ささがせ)や板倉城で戦い、討ち死にしたと云われた妹尾太郎兼康公の供養塔があるます。 |
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妹尾太郎兼康公居館跡 (洲浜城) |
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岡山市南区妹尾 | ||
妹尾は平家の大将の一人「妹尾太郎兼康公(1126-83)の領地であったと云われています。 兼康公は十六歳で妹尾に入り、洲浜城を築いたのです。 |
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兼康神社 | ||
総社市井尻野928 | ||
兼康神社は、井神社に併社されており、妹尾兼康を祭っています。 |
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湛井堰 (たたいぜき) |
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総社市井尻野 | ||
妹尾太郎兼康は、備中妹尾郷に所領をもち、田に水を引くため、堰の築造と用水路の改修を命じます。 | ||
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倉光三郎成澄之塚 | ||
和気郡和気町藤野538 | ||
木曽義仲の家臣の倉光三郎成澄は平氏を追って西む際、平家方の武将・妹尾兼康に道案内をさせました。 しかし和気氏の氏寺・藤野寺跡(実成寺)にて、倉光三郎成澄は妹尾兼康に夜討されるのです |
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平忠盛の歌碑 | ||
瀬戸内市邑久町虫明5652-11 | ||
忠盛が 「虫明の迫門の曙 見る折りぞ 都のことも 忘られにけり」 と詠みました。 |
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源平藤戸合戦の碑 | ||
倉敷市藤戸 | ||
藤戸寺の西に八百年記念として道路脇にあります。 |
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藤戸寺 | ||
倉敷市藤戸町藤戸57 | ||
源氏方の佐々木盛綱が源平両軍の戦没者の霊を慰め、敵陣一番乗りの手引きをしてくれた若者の霊を祀るため大法を営んだお寺です。 |
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藤戸寺 五重塔婆 |
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倉敷市藤戸町藤戸57 | ||
寛元元年(1243)の刻名があり、鎌倉時代中期はじめの作らしいよ。 源平合戦の供養塔と云われているよ。 |
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藤戸寺 八百年忌供養塔 |
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倉敷市藤戸町藤戸57 | ||
五重塔婆の横にあるよ。 まだ新しいけど、永遠に残るんだよね。 |
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佐々木盛綱の像 | ||
倉敷市藤戸町21 倉敷市藤戸町天城21 |
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佐々木盛綱は、源頼朝が治承4年(1180)挙兵するや弟範頼に従い平家と戦かいつつ西へ下った。 この地で、馬を躍らせて海を渡り、敵陣へ乗りこんだのです。 |
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経ケ島 | ||
倉敷市藤戸町天城19 | ||
藤戸寺前の飛境内であった小島に、経を納め供養塔を建てたのが経ケ島です。 |
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乗り出し岩 | ||
倉敷市藤戸町有城91-1 | ||
佐々木盛綱は浦人から対岸に通じる一条の浅瀬を教えられます。 寒中をものともせず、この岩鼻から馬おどらせ乗り出します。 そして一気に海中を押し渡り先陣の偉功をたて、平氏を屋島へと敗走させたのです。 |
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鞭木跡 | ||
倉敷市粒江2450 | ||
海へ乗り出した佐々木盛綱が、海が浅くなっている場所に鞭をさして休んだ所、その場所に鞭が大きな森になったのです。 |
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浮洲岩 | ||
倉敷市粒江 | ||
岩礁の跡で、藤戸海峡が東西にとして知られ、源平両軍が戦った古戦場として有名です。 |
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御崎神社 | ||
倉敷市有城445 | ||
佐々木三郎盛綱は高坪山山麓に布陣、八幡宮を合祀して、戦捷を祈願しました。 大勝した盛綱は感謝し、この岬に宏壮な社殿を造って遷宮したと云われています。 |
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蘇良井戸 | ||
倉敷市有城348 | ||
御崎神社に源氏の兵士が布陣した時、兵たちが飲み水として使っていたと云われています。 |
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笹無山 | ||
倉敷市藤戸町天城945 | ||
盛綱に海の浅瀬を教えた男を切り捨て海中に沈めるのです。 男の老母が恩を仇で返した盛綱の残酷なしうちをのろい、今でも笹が繁ることが無い小山なのです。 |
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誓紙の井戸 | ||
倉敷市粒江 | ||
佐々木盛綱は功績により備前国児島を拝領します。 入領するにあたって、土地の主だった者に忠誠を誓わせるため、誓紙を書かせ、その時、この井戸の水が使われたそうです。 |
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平家本陣跡 | ||
倉敷市粒江 | ||
藤戸合戦で平行盛を大将とする平家の本陣を置いたところです。 |
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篝地蔵 (かがりじぞう) |
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倉敷市粒江 | ||
平家本陣跡と同じところにあります。 本陣を置いて、かがり火を焚いたと云われ、今ではお地蔵さまが祀られています。 |
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先陣庵 | ||
倉敷市粒江1214 | ||
のちに盛綱は、この地に「先陣寺」という寺を建て、戦没将兵と、渡海の手引きをしてくれた恩あるにもかかわらず、他言を封じるため命を奪った浦男との冥福を祈りました。 |
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源平藤戸合戦 沖ケ市激戦地の碑 |
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倉敷市粒江 | ||
先陣庵から北側の集落を抜けて、道沿いにあるよ。 この辺りで、大激戦があったんだよね。 |
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法輪寺 | ||
倉敷市羽島4680 | ||
藤戸合戦で、源氏の軍勢はここ法輪寺に本陣を構えました。 |
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西行法師 腰掛石 (清田八幡神社) |
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倉敷市曽原1124 | ||
仁安3年(1168)、西行法師が51才の時、四国への旅の途路、清田八幡宮を訪れ昔の思い出を懐かしみ詠歌を残しています。 |
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源平合戦水島 古戦場(平家方) |
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倉敷市玉島柏島 | ||
源氏方は足利義清、海野幸広、平家方は平重衡、平通盛が大将となり水島で戦うのです。 その後の一の谷、屋島、壇の浦と一路平家滅亡への転機となった合戦なのです。 |
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源平合戦水島 古戦場(源氏方) |
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倉敷市玉島乙島 | ||
木曽義仲の客将矢田判官代義清、信濃国住人海野弥平四郎行廣率いる源氏軍と、新中納言知盛、能登守教経率いる平家軍が、風荒れる水島で凄絶なる海上戦を展開します。 |
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下津井合戦 (田土浦公園) |
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倉敷市下津井1-13-16 | ||
寿永3年(1184)、平家が一ノ谷に備え本州に渡ると、四国の武将たちが源氏に寝返りました。 下津井には平教盛、通盛、教経が陣を張っていたので、武将たちは撃退されました。 |
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那須与一公菩提寺(永祥寺) | ||
井原市西江原町5512 | ||
那須与市は屋島の合戦の際、扇の要を一矢にて射抜き、戦功に依り荏原庄を賜わります。 その孫荏原に小菅城を築き城内に稲荷を祀り、御神体と共にその片袖を安置しています。 |
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