京都府京都市下京区七条御所ノ内本町98 | |
京都の神社めぐり | |
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宝亀3年(772)、唐から渡来し天王寺に居住した威光上人が、紀州熊野を詣でた際、迷い苦しむ人々を救済しようと、御分霊若一王子の御神体を背負って旅立ち、当地の古堂で一夜を明かしたところ御神詫を授かり、堂中に安置しました。 |
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平相国 平清盛公 その後、当地は荒廃しましたが、平清盛公が六波羅に在住していた頃には、当地は浅水の森と称し、風光明媚な土地として名を馳せており、平清盛公は、当地に西八条御所と称される別邸を造営しました。 JRの北側の梅小路公園にも西八条第跡の説明があります。 |
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平清盛公 ゆかりの御神水 仁安元年(1166)、平清盛公が熊野詣でをされた際に、「土中に隠れたる御神体、世に出し奉斎せよ」との御神詫を授かりました。 帰京後、邸内を探したところ、東方の築山が夜光を放っており、清盛公自らが三尺ほど掘ったことろで、土中から若一王子の御神体が現れ、当地に社殿を造営し鎮守としました。 |
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平清盛公 御手植楠 平清盛が御神体に開運出世を祈ったところ、翌年の仁安2年(1167)2月10日、太政大臣に任ぜられたことから、開運出世の神様として尊崇されています。 社前の御神木は、平清盛公によって植樹されたものと云われています。 |
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祇王歌碑 「萌えいずるも 枯るるも同じ野辺の草 何れか秋にあはではつべき」 白拍子・祇王、祇女や仏御前の物語も、西八条の邸宅での物語だそうです。 太政大臣を退いてから摂津福原に居を移しましたが、妻の二位尼時子はこの邸に住みました。 |
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治承5年(1181)2月4日、清盛は64歳で世を去ると、その2日後に邸で火災が起こります。 再建された建物も、寿永2年(1183)7月25日、平家の都落ちで自ら火を放ち、邸宅は灰となるのです。 『現地案内を参照』 |
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