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26.志方八幡宮 | |
天永2年(1111)に創祀、明応元年(1492)に黒田官兵衛の妻・光姫(てる)の曽祖父・櫛橋則伊(のりこれ)により八幡神を勧進され、志方総鎮守となりました。 厄除け、安産、交通安全の神として信仰されています。 社務所は平成14年(2002)に国登録有形文化財に指定され、また長い能楽の歴史を持っています。 |
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27.円照寺 | |
花の寺として知られ、3月から11月にかけてクリスマスローズ、ユキヤナギ、椿、ライラック、あじさい、ノウゼンカズラ、酔葵蓉(スイフヨウ)などの花が咲き乱れます。 境内には明応7年(1498)の年号が刻まれた市指定文化財の銅鐘もあります。 |
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この銅鐘は、もと山口県徳山市の上野八幡宮のもので、秀吉が島津氏との戦いに陣鐘として用い、帰京の際、宮谷付近に捨てたものを志方八幡神社に納めたが鳴りが悪かったため円照寺に納めたと云われています。 |
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28.七ッ池・志方東公園 | |
志方町細工所、城山の北西側に並んでいる「下の池」「新池」「上の池」「平池」「明神池」「笹池」「惣右衛門池」の七つの池を「七つ池」と呼んでいます。 池の周りには旧石器時代の遺跡や奈良時代の窒業が残っています。 池の南側にある志方東公園内には、自由広場、グラウンド、テニスコート(ナイター設備完備)、複合遊具があり、豊かな自然とスポーツを同時に楽しむことができます。 |
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29.加古川運動公園陸上競技場・加古川市立総合体育館 | |
陸上、サッカー、ラグビー、室内球技など、国際試合を開催できる本格的な競技場、体育館です。 陸上競技場のトラックは、選手の緊張を緩和するといわれる青色で、日本陸上競技連盟の第1種公認を受けています。 屋内練習場やトレーニングルームを備えるほか、市民が参加できる教室も開催されています。 |
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30.加古川ウェルネスパーク | |
「ウェルネス都市 加古川」にふさわしい健康づくりと憩いのための複合施設です。 世界三大ピアノの一つ「ベヒシュタインを備える木づくりのコンサートホール」をはじめ、フィットネスジムやプール、図書館、ハーブ等が植えられた園内を巡る小道の散策を通して心も体もリフレッシュできます。 |
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32.天下原(あまがはら)の毘沙門さん | |
天下原の毘沙門さん(大歳神社)は、弘化3年(1846)に建てられたといわれています。 この地域はかつて天下原村と呼ばれ、現在の天下原字鞍馬山の岩肌に彫刻された磨崖仏の毘沙門天がご本尊です。 石段を上がった拝殿付近からは、東神吉の街並みなどを見渡すことができます。 |
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33.観音寺・志方城跡 | |
曹洞宗の寺院で本尊は観世音菩薩で、観音寺の付近一帯は志方城跡です。 現在の観音寺の境内を本丸とし、本丸を囲む内堀の周囲に二の丸(志方小学校所在のあたり)、西の丸(旧志方町役場所在のあたり)とかなりの規模の城であったようです。 この城の城主・櫛橋家は伊朝を祖とし代々赤松氏の家臣でした。 伊朝より五代の孫、櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に仕えて大いに重んじられ、祖父の例にならって播磨・備前・美作の三国の財産出納の役をつとめ、文明13年(1481)志方・天神山に城を築き、明応元年(1492)この地に志方城を築きました。 |
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以来、伊家、伊定、政伊と父子四代続き、天正6年(1592)秀吉の攻略にあって落城しました。 伊定の娘、光(てる)は秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛の妻となり、結婚した翌年に嫡男が生まれたのが、後の福岡藩主・黒田長政です。 現在の観音寺は、志方城落城の後、天正15年(1587)、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために城の本丸跡に禅寺を建立したのが始まりです。 |
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42.泊神社 | |
神代に伊勢神宮の御神体の一つである御鏡がここに泊まり着いたことから泊神社が起こったと云われています。 祭神は、天照大神に、少彦名神(すくなひこなのかみ)、国懸大神(くにかかすのおおかみ)です。 現在の社殿は、承応2年(1653)、宮本武蔵の養子、宮本伊織が改築した時のものと云われています 一歩足を踏み入れると境内は広く、南北朝時代の石弾城(いしはじき)の石垣と思われるものや、宮本伊織寄贈の花崗岩製の灯篭(写真右)、市指定の36歌仙図絵馬が残っています。 |
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「石弾城の標碑」 |
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城主は、大井三樹伊豫守宰任従五位左京亮で、歴応二年八月三十日雁南荘地頭職を給わり、この城に居を構えました。 次宰の五男に雁南右衛門四郎勇という者がいて、永和元年五月五日父の跡を継ぎ、正六位に任じられ、主馬助と号し赤松氏に従っていました。 この勇の長男に雁南刑部太郎長という者がいて、亨徳三年家督を継いで木村源五郎と号します。 父にしたがって武功があったが、康正元年父勇討死の後、なおこの石弾城を固め守っていましたが、長禄元年三月、山名宗全に攻められて討死して遂に落城したのです。 |
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43.尾上神社・尾上の松 | |
祭神は海の神様・住吉大明神です。 境内には謡曲「高砂」に謡われた相生霊松「尾上の松」があり、現在の松は5代目、樹齢約100年です。 重要文化財の「尾上の鐘」も代表的な朝鮮鐘として有名です。 「尾上の鐘」にはその昔、海賊に盗まれて海に沈められた後、漁師の手によって引き上げられ高野山に奉納されましたが、鐘をつくたび「おのえへ、いの〜」と聞こえたため、尾上神社に戻されたという伝説があります。 |
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都恋しき片枝の松 |
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神功皇后のみあとをしたって枝松ことごとく東に向かって張ったと云われています。 その形状は、あたかも龍のうずく様にて、千載霜におごる色深く、誠に希世の老松であったが、昭和24年枯れ、現在は三代目だそうです。 |
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44.加古川海洋文化センター・別府みなと緑地 | |
別府港の近くにある、海をテーマとした文化施設です。 ゲームやアスレチックといった遊びの感覚で、船の操縦の構造を学べるコーナーが充実し、図書館もあります。 周辺には、潮の香りと芝生の緑を楽しめる別府みなと緑地、水遊びができ親子に人気のじゃぶじゃぶ池などがあります。 |
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46.浜の宮公園・浜宮天神社 | |
広大な浜の宮公園内には市の木「黒松」が約3,000本群生し、江戸時代に「播州松巡り」で人気を集めた名勝地の名残りをとどめます。 また松林の中には、陸軍航空通信学校尾上教育隊の遺構が保存されています。 西北端には、名松「加古の浜松」が伝わる菅原道真公を祀る浜宮天神社があります。 |
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大阪陸軍航空通信学校の兵舎跡 |
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戦前、旧陸軍(大阪陸軍航空通信学校尾上教育隊)の兵舎の建設され、約1500人の隊員が駐留していました。 戦後まもなく建物は取り壊されましたが、最近まで数多くの基石が存在していました。 |
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47.別府住吉神社・手枕の松 | |
漁業や海上交通の守り神として親しまれてきた住吉神社の境内にある松です。 松が横に傾き、腕枕のように見えることから、別府出身の俳人・滝瓢水(たきひょうすい)が「手枕の松」と名付けました。 「播州松巡り」の東端にあたり、近世地誌「播磨鑑」では、曽根の松に並ぶ霊松と評されています。 |
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48.宝蔵寺 | |
奈良時代、聖武天皇の勅命で行基が開基しました。 真言宗の寺院で、室町時代に作られたと伝わる阿弥陀如来像を本尊とします。 境内には明治19年(1886)、多木化学株式会社の創業者・多木久米次郎が譲り受けて植えた、日本最古といわれるオリーブの木があります。 また加古川出身の俳諧師・滝瓢水(たきひょうすい)の筆塚も残っています。 |
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48.権現ダム | |
昭和57年3月に、加古川工業用水の安定供給を目的として建設されました。 湛水面積約1k平方メートル、貯水量1100万トンです。 第1ダムから第3ダムがありますが、最も大きい第1ダムは、堤高32.6m、堤頂長357.4mです。 ダム湖周辺は「加古川右岸自転車道」の一部であり、サイクリングロードとして整備されています。 各所に休憩所やベンチが設けられていて、自転車で走りながら、あるいは座って、透き通った水面や沿道の草花、豊かな緑のなかに広がる壮大なダム湖を楽しむことができます。 |
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